フロイトの「フモール」

 「笑い」とそれを巡る「アイロニー」や「ユーモア」といった概念に興味があり、関連するものをできるだけ読むようにしている。古今東西の哲学者や文学者の「笑い」を巡る議論は、それぞれに個性があり、大変に面白いものだ。
 さて、人間の心理にまつわるあらゆることに関心を抱いたフロイトもまた、笑いを巡る論考をいくつか残している。代表作は『機知』であろう。フロイト自身が気に入っていると思われる冗談を縦横無尽に引いてくるさまは、なかなか面白いものだが、ただし、フロイトの理論を前提しないと話がわかりにくいところもあり、必ずしも読みやすい本とはいえない。そのためか、文庫本にもなっていない。だから、フロイトのややシニカルな笑いを巡る議論は、十分には知られていない状況にある。これは少々残念なことだ。
 もっともフロイトには、「フモール」というとても素晴らしい文章がある。1927年に書かれたこの論文は、日本語版の全集でも僅か7ページほどのものだが、「生きる」ことと「笑い」(ないし「ユーモア」)との関係を余すところなく描きだしているように思う。


 フロイトによれば、「フモール」(「ユーモア」)とは、自我が苦境に陥った時に発せられるものである。フモールによって自我は、苦境に陥っているにも関わらず、「自らが現実からの誘因によって感情を害したり、苦悩を強いられることを拒み、外界から外傷を受けたとしても悲しんだりせず、むしろ、それは自分にとって快の原因にすぎないことを誇示する」。苦境に陥った時に、その状況の否定的な面のみに拘る姿勢を中断し、「そうした苦境なんて、所詮大したことはないのだ」と、別の視点を取るようにすること、それがフモールの特徴であるということになろう。フロイトが引く例は、月曜日に絞首台に連れて行かれる犯罪者が、「おや、この週は幸先がいいね」と言ってのける場合である。彼は、「死」に直面してすら、フモールによって、それがあたかも重大事ではないかのように振る舞っている。自己の余裕を誇示している、と言えようか。だから、「フモールは諦念的ではなく、反抗的であり、それは自我の勝利だけでなく、現実の状況がどんなに厳しかろうとそれに打ち勝つことができる快原理の勝利をも意味しているのである」。
 ところでフロイトによれば、このフモールは、「超自我」によってもたらされる。通常超自我とは、幼児期に命令を下す親の権威が内面化されたものであり、いわば禁止と処罰を本質とするものである。私が何か悪いことをしようとするとき、「やめなさい」と言ってくる無意識の声、これが超自我ということになる。しかしフモールに際しては、超自我は、不安に震える自我に、逆に、励ましを与える、というのだ。なるほどお前は現状を辛いものと思っているかもしれないが、そんなに真面目に考えることはない、あまり堅苦しく考えることはないというのが、ユーモアを語る超自我のメッセージである。「つまり、フモールは次のように言おうとしているのだ、ほら、世界はとても危険に見えるけれど実はこんなものなんだよ、子供の遊びなんだから、茶化してしまえばいいんだ、と」。


 私はこのフロイトの議論を、賢者のそれだと思う。世に真面目に取り組むべきことは多い。だが、真面目なものと真面目なものがぶつかれば、お互いの正しさを主張し合うことで、争いが激化し、議論の中身に釣り合わない被害を生じさせることもしばしばある。そうした事態を避けるためにも、他者の真面目さ、ひいては自らの「真面目さ」を「茶化して」しまう心は持ちたいものなのである。上の議論はそうした筋道を平易に解き明かすものと思う。
 この論文は、岩波書店版『フロイト全集』の第19巻に収められている(pp. 267-274)。


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