正月の読書

 年末の習慣として、古本屋巡りがある。もちろん、一年中、折りがあれば古書店には行くが、年末の場合は目的が比較的はっきりしている。年末年始に読む小説ないしノンフィクションを探しに行くのである。肩の凝らない楽しみだけの本を探す、というのは、それだけでも楽しい作業だ(実のところ、年末年始だけでなく一年中そんな本探しをしているから本業に身が入らないのかもしれないが、それは措こう)。

 去年の暮れに実家近くの古書店で偶々手に取ったのは、サマセット・モームの『劇場』。舞台女優として相当の地位を築いているジュリアの男性模様を、ジュリアの心理を丁寧に活写しつつ描いていく佳作だが、特に最後の方のジュリアの「強さ」が良い。自分の心に取りついていた澱のようなものが、全く質の違うものへと昇華されていくプロセスが読んでいて心地よいのだ。多少ネタバレになるけれど、失恋ごときで(あえてこうした言い方をしよう)悩んでいる人は、この本を読んでみても良いかもしれない。

 モームといえば、『人間の絆』と『月と6ペンス』は読んでいるが、それ以外の作品は読んでいなかった。そういえばこの二つのも結構楽しく読んだものだったことよ、と思いつき、タイトルが魅力的な『昔も今も』と『女ごころ』を折角なので読んでみた。後者もまあ面白いが、ここでは、前者について一言。

 

 『昔も今も』という暖かくも苦みのあるタイトルを持つこの作品は、マキャヴェリチェーザレ・ボルジアの交渉を軸に、欲望に生きる人間たちの姿を、その微妙な心理の動きと共に描く作品。観察能力と分析能力に優れつつも、世俗の欲望に正直なマキャヴェリは、友人にするにはちと面倒とは思うが、魅力的な人物である。とはいえ、彼がただ活躍するだけの物語ではなく、なかなか味のあるどんでん返しを食らうところもあり、ストーリーとしても飽きさせない(もっとも、この「どんでん返し」は、ある程度予想はつくものだが)。もしもこの時代に興味があるのなら、ぜひご一読いただきたい。

 

 ストーリーは別として、この小説で気に入った箇所は次の箇所。マキャヴェリが、ある商人に経済的に世話になっている女性について次のように言う次の箇所。

 

 「・・・セラフィーナはやつから恩義の重荷をしょっているから、内心、恩人たちに恨みを抱いているにちがいない。[略]だが彼女が貧乏で、彼が金持ちである、そして彼女が彼のほどこしで生きている、とうことは事実だ。恩義の重荷を背負って生きるのは、これはなかなか辛いもんだ。敵からくわえられた危害なら簡単に許せても、友から与えられた恩義となると、簡単には許せないものなのだ。」(ちくま文庫版、pp.79f)

 

 こういう認識って大事だと思います。人に恩恵を施したとき、そしてそれがかなり大きいものであるとき、私たちは相手が感謝してくれているもの、と思いがちだが、表面上は感謝の言葉を絶やさないその人が、内心では憎悪を燃やしている、というのはよくあること(もちろんそうでないことが大半だが)。実際、あまりに大きな恩義を受けて、折に触れて相手に感謝の念を伝えねばならぬ、というのは、実は気分のよいものではない。私たちはこうした心の動きがあることを、心の片隅に置いておいた方が、多分良い。

 

 こんな感じの人生への洞察に満ちた小説だが、一箇所承服しかねないところがある。欲望に忠実なマキャヴェリは、自分が欲望のままに邁進することを正当化するために、こんなふうに嘯く。

 

「彼女も、おれぐらい人生を知るようになったら、よくよくわかるだろうよ。つまり、この世で後悔することがあるとしたら、それは誘惑に屈したことではなく、誘惑を退けたことだということが。」(同、p.244)

 

あるいはこうだ。

 

「「罪を犯さなかったことを後悔するより、罪を犯して悔い改める、こっちのほうがずっといい」とマキャヴェリはつぶやいた。」(同、p.348)

 

 まあつまり、後悔を恐れて快楽の道を避けるよりは、思い切ってその道の跳び込んだほうた人生を心行くまで味わえる、というわけだ。とはいえ、私の場合、過去に誘惑に屈したことについては、かなり後悔しているので(しすぎないようにはしていますが)、この人生観は頂けない。もっともこれは、私の人間の器が(モームの描きだす)マキャヴェリの器には到底達していない(←当たり前)ということを表わしているにすぎないかもしれないが。

 

M&M's