ブラームスの慰め

 前回の最後に「慰め」という言葉を思いがけず発したが、数多いる作曲家のうちで最も「慰め」という言葉が似あうのはブラームスだと思う。バッハのもたらす「慰め」を語る人もいるが、彼の作品がもたらすものは、近代人・現代人が求める「慰め」とは位相を異にしてはいないか。

 なお、前回にひっかけていえば、ブラームスにも「伸びやかさ」が感じられる曲がいくつかある。歌曲「旋律のように(Wie Melodien zieht es)」(op.105-1)などは静かな憧れに満ちた「伸びやかさ」に満ちているが、しかしそれはメンデルスゾーンの持つ素直さを備えたそれとは異なり、既に何か「諦め」、あるいは「慰め」の色合いが強い。

 

 さて、「慰め」に満ちたブラームスの曲と言えば、例えば、ヴァイオリンソナタ第2番が浮かぶ。シンプルで美しいピアノの和声で始まる第1楽章は、内省的とも言える動機、旋律を奏でるヴァイオリンに、ピアノがそっと寄り添い、あるいはこれを慰める、といった趣がある。第2楽章も同様の趣を持つがより旋律的な要素が強いと言えるだろうか。第3楽章は様々な動きが見られるが、解決は感動的で、冒頭部で示されていた憂愁が解決され、新たな世界へと解き放たれるかのようだ。楽器を擬人的に扱うことの危険は承知で言うのだが、この曲の基本モチーフは、ヴァイオリンが象徴する何かしらの挫折に悩む年少者を、ピアノが象徴する年長者が慰めている、という構図で説明できると思う。

 管弦楽曲の中ではやはり「ドイツ・レクイエム」が筆頭に挙がるだろうか。冒頭の「悲しむ人たちは幸いである。その人たちは慰められるであろう(Selig sind, die da Leid tragen, denn sie sollen getröstet werden)」という歌詞が、この曲全体のモチーフをよく象徴している。レクイエムという性質上厳粛な箇所も多いが、「慰め」がこの曲の基底に流れていることは間違いあるまい。

 

 他に「慰め」という意味で印象に残る曲には、ブラームス弦楽四重奏曲第3番の第3楽章がある。どこまでも甘いと言えば甘いのだが、この曲がもたらす情緒には、他の曲にはない独自のものがある。なお、G. スタイナーは、ウィトゲンシュタインがこの曲を聴いて自殺を思いとどまったと述べている(「ウィトゲンシュタインは、ブラームスの『弦楽四重奏曲第三番』の緩徐楽章が彼を一度ならず自殺の淵から引き戻した、と書いているが、これはいささか大胆な推理を働かせたものと言えるだろう」(G. スタイナー『G.スタイナー自伝』(工藤政司訳、みすず書房、1998年)、p.107:ただしこの文章の後半部はよく意味がわからないので、原文との対照が必要かもしれない)。

 

 しかし、「慰め」という意味では、ブラームスの晩年のピアノの小曲集たち(「三つの間奏曲」(op.117)、「六つのピアノ小品」(op.118)、「四つのピアノ小品」(op.119))がその頂点をなすだろう。特にop.117-1やop.118-2といった長調の小品が私たちに与える印象は、言葉では言い尽くせぬものと思う(つまり、聴いたことのない方はぜひ聴いてみてください、ということ)。作曲技巧上のことはわからないが、多少、シューベルトの晩年のピアノ曲と繋がるところがあるのではないか。これらの曲を作った時(1893年)、ブラームスが自身の死(1897年)をどれくらい意識していたかはわからないが、全く脳裏になかったとは考えられない。死が避け得ぬものである以上、死の想念にどう身を処するか、というのは重要な問題となろうが(もちろん問題とすること自体が間違っているという考えもあろうが今は措く)、ブラームスはこれに対してこの三つの作品集をもって(さらに、『四つの厳粛な歌』を含めてもよい)音楽による答えを与えているのだろう。そして、ブラームスが与えた「答」は、彼が期待した以上に多くの人に、「慰め」を与えている。

 

M&M’s

 

  • ウィトゲンシュタインに関する箇所だが、スタイナーは出典を挙げていないため、ウィトゲンシュタインがどこでこうしたことを述べているのかわからない。あるいは万が一スタイナーの勘違いだとしても、スタイナーほどの碩学がこうした勘違いをするほどこの曲を愛している、ととれば良いのではないか。