ラジオから学ぶこと(3)

 ラジオというメディアの「功徳」は、聴いている時の思いが、まずは自分自身の心へと反響することではないか。双方向性が比較的強いコミュニケーションの場合、心に浮かんだ思いをすぐに相手に投げかけてしまうことがよくある。日常会話が最たるものだし、インターネットのニュースのコメント欄でのやりとりにも、そうした現象が見られるように思う。これにはもちろんメリットも多い。リズムの良いやりとりの快楽は確かにある。とはいえ、こうしたコミュニケーションの場合、その時の感情に任せて発した言葉が、やり取りを損なってしまうことも多くあるだろう。少なからぬ人は、不適切な発言をした場合、そしてそれに半ば気が付いている場合でも、発言を訂正するよりは、むしろ問題の発言を正当化することに意を注ぐようだ。過去の不適切な発言を訂正し、適切な考えを持つことよりは、過去の不適切な発言に合わせて自分の人格を鋳直していくほうが良いのだろうか。不思議に思う。

 いずれにせよ、双方向性が優れたコミュニケーションは、大きなメリットを持ちながらも、他方で、激しい、言葉を選ばずに言えば条件反射的な感情をコミュニケーションに持ち込む点で、そしてそうした条件反射的な感情を「正しい」と思わせる傾向があり、かつそれは「欠点」とは言わぬまでも、意識すべき「問題点」とくらいは言えるだろう。

 

 他方、とりあえず一方通行的なメディアというのは、このようなことは生じない。書物やテレビ番組に触れた時に抱いた思いは、口に出して発したところですぐに相手に届くわけではない。誰も引き受けてくれる人はおらず、まずは自分に跳ね返ってくる。そして、そうした状況で、時に人は、自身の思いを顧み、ある時は自分の感情の適切さを問い、またある時はやまびこに耳を傾けるように、己の思いを享受するように思う。とはいえ、例えばテレビの場合は、刺激が強すぎ、またテンポも速く、そうした自分の思いを反芻し味わう、ということは、実質的にはできないように思う。また、なぜかわからぬが、私の見るところ、視覚情報に曝されているとき、人は自分のもとに立ち戻るよりは、外の世界へと何かを探しにいくように思う。

 ラジオの場合はどうだろうか? もちろん番組の性質があるので一概には言えないが、語り手の静かな言葉がかき立てる思いは、幾重にも反響しながら自分に跳ね返ってくるように思う。特に、夜あかりを消し、布団に入りながら静かに耳を傾けていると、一方で他者の言葉を自身の心に響かせながら、それによって浮かぶ微妙な心の変化をもまた受け取っているような心地がする。また、そうした時に、会ったこともない知らぬ人の葉書などが読まれると、自身と同じ思いをする人がいる、ということの喜びが、純粋に立ち現れてくるように思う。「共感」というのは、見知った人との明確な言葉に成り立つ時も意味はあるが、見知らぬ人との微かな共感のほうが、むしろその強度は強く、そしてその真の意味をはっきりさせてくれるように思う。

 私なりにまとめれば、ラジオは私たちに「聴く」ことの倫理を教えてくれるように思う。まずは聴くこと、人の言葉に耳を傾けること、そして浮かんだ言葉や思いを、一度は自分のものとして引き受けること、そのことの意義を教えてくれるように思う。お互いが意見を交わすことばかりがコミュニケーションではない。黙って耳を傾けることも、またコミュニケーションの重要な一形態であろう。

 付記すれば、手紙もそうしたコミュニケーションツールであるように思う。人から受け取った手紙に言葉を選ぶつつ返事を書く経験、あるいは、友人からの手紙に怒りに駆られて綴った返信を破り捨てる経験、こうした経験は、言葉のやり取りの倫理を学ぶ場所であるように思う。私は過度の手書き信奉者ではないが、それでも、こうした経験が減っていることは、何かしら悪い兆かもしれない、とも思う。

 

M&M's

 

追記:普段も殆ど推敲はしていないのですが、今日は全くしておりません。結構テンパっているのです。読みにくい箇所があれば、お許しを。ただ、前回のような、別の話を混ぜ込むことはしていないつもりです。