キェルケゴールの話

基本的にツイッターにいるので、細かいことはわからない。しかしキェルケゴールの『死に至る病』を読んだ知り合いがおり、なんのひとだ?と言っていたのを目にした。彼はまごうことなきクリスチャンである。しかし当時クリスチャンではなかった俺の(のちに改宗したので今はクリスチャンだが)メモを書くには値するかもしれない。

死は病の終局ではなく、死はどこまでもつづく最後なのだ。死によってこの病から救われるのは、不可能なことである。なぜなら、この病とその苦悩は、――そして死は、死ぬことができないということそのことなのだからである。

これが絶望における状態である。絶望者が自分の自己を失ってしまうことに……たとえどれほど失敗しようとも、またたとえどれほどそれに成功しようとも〔これは特に、絶望であることについて無知であるような種類の絶望の場合に言えることである〕、それでも永遠はきっと、彼の状態が絶望であったことを顕わにするであろう、そして彼を自己の彼に釘づけにすることであろう。そこで、彼が自分の自己から脱け出ることができないという苦悩がどこまでも残り、それが彼にできるなどと思うのは単なる空想でしかないことが顕わになるであろう。そして永遠はそうするにちがいない。なぜかというに、自己をもつこと、自己であることは、人間に与えられた最大の譲与であり、無限の譲与であるが、しかし同時に、永遠が人間にたいしてなす要求でもあるからである。

キルケゴール『死にいたる病 現代の批判』桝田啓三郎訳(中公クラシックス 2003年)より