古典新訳文庫の話

 書評集の類いを読むのが好きだ。評されている書物の中身を直接読まずして味わいたいという怠惰な気持ちから来ていることはわかっている。折々、編集者の評伝や回想録に読み耽ってしまう。本づくりに実際に携わることなしにその喜びを味わいたいという邪な気持ちからであることは進んで認める。いずれの喜びも、少々の甘美な罪悪感と共に、今後も味わっていくつもりだ。

 ところで、後者の類いの本は自ずと前者の性質を帯びる。本づくりに取り組む人々を巡る物語が、件の人々の関わった書物の評へと流れていくのは物の道理であろう。この種類の本として、駒井稔『いま、息をしている言葉で。 「光文社古典新訳文庫」誕生秘話』(而立書房、2018年)を読んだ。面白い。

 内容は、タイトルに凝縮されている。「光文社古典新訳文庫」と言えばご存知のように、その全般的な翻訳に対する姿勢、あるいは個別の作品の実際の訳文に少なからぬ批判はあるとはいえ、いわゆる「古典」への垣根を低くし、それまで敬して遠ざけられてきた書物たちの読者層を拡げた点で、日本の出版界に大きな貢献をしたシリーズだ。この「古典新訳文庫」の企画立ちあげから、シリーズの開始、そしてその後を、この企画を立案した編集者が語ったのがこちらの書物である。

 これにさらに、筆者の自伝めいた話が入ってくる。いわゆる大衆向け週刊誌の代表格であった『週刊宝石』に関わった経験や、当人の私的な海外旅行の経験などが主たる話題である。これらが「古典新訳文庫」の立ちあげとどう関わるのか、訝しく思う人もいるかもしれず、またその関わりが十分に説明されてはいないのだが、そこは、読者があれこれ想像を膨らませる部分であろう。私としては、特に『週刊宝石』に関わった経験は、読者にわかるものを、という筆者の根にある姿勢を強くしたのであろう、と、面白く読んだ。なお、多少の自分がたりはあるが、自慢めいた話はないので、いやらしさはない(周囲の方への感謝の方が多い)。

 

 実際の「古典新訳文庫」の立ちあげに関する箇所については、個々細かくは触れない。それでも少しだけ書けば、翻訳者の方々とのやりとりは当然のこと、ページのデザインや「表紙」の紙の材質を巡る話などが面白い(後者については、同書pp.199fを参照されたい)。筆者の語る、ページの文字配置(こういう言葉でよいのかしら?)を巡る配慮も好ましいものだ。内容も去ることながら「モノ」としての書籍の喜びを伝えてもくれる点で、「一粒で二度おいしい」タイプの本と言える。

 

 いや、「「一粒で二度おいしい」タイプ」という言葉はむしろ、この本がやはりいくばくかは、書評の性質を帯びていることについて用いるべきだろう。

 筆者は編集長として、「古典新訳文庫」から公刊される書物すべてに目を通している(ちなみにもう一人そういう人がいて、表紙の画家とのこと -佳話である)。この本では、筆者が本文庫に収められた書物のいくつかについて語るわけだから、自ずと「書評」の性質を帯びていく。扱われている書物には、タイトルに慣れ親しんだ古典もあれば、少なからぬ人にとって初めて目にするタイトルの書物もある。そのいくつかについて、編集者ならでは、つまりは一読者としての良い意味で素朴な感想が記されている。これらは、読み手を新たな世界へと -あるいは若き日に触れた懐かしい世界へと- 誘ってくれる。

 私自身としては、次の書物に特に心魅かれた(自分の心覚えのために記しておきます)。

 

1) ムージル『寄宿生テルレスの混乱』

2) ソル・ファナ『知への賛歌 -修道女ファナの手紙』

3) トーマス・マン『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』(上・下)

4) ロダーリ『猫とともに去りぬ』

5) チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』

 

 1)は、『特性のない男』に手を伸ばす時間はないので、とりあえず読んでみようかしら、と。2)は17世紀末のメキシコの修道女によるもの、とのこと。これだけで手に取って見たくなります。 3)トーマス・マンはある程度読んでいるので(『ファウスト博士』も読んでいるのはちょっと自慢)、折角だからと。ただ、マンの場合、これを読み終えても『ヨセフとその兄弟』が待っている。これはさすがに引退後だな。4)はイタリアの風刺的ファンタジーということで、ちょっと心が疲れたときには良いかもしれない、と。5)は、アフリカへのキリスト教の伝来を、「伝統的な部族社会を変質させていく象徴的な出来事として」(p.313)描く作品とのことです。

 

(※3月17日追記:当初3)には、ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』を挙げていたが、これは古典新訳文庫に入っているわけではなかったので(「共和国」という出版社から出ています)、別のものと差し替え。本書で引用されているので、収められていると早とちりをしてしまいました。消去したコメントは以下の通り。「3)は、第二次世界大戦ソ連収容所で、死の恐怖を忘れるためになされた捕虜たちの自主的な講義でなされた、プルースト講義。記憶に頼るだけで講義ができるほど愛読しているのが素晴らしい! (一度通読したくらいでいばってはいけないと反省)」)

 書物を出すとはどういうことかを学びつつ、自分に気に入る本を探すことができる、という意味で、この本はやはり良書と思う。もしもこちらの本をお読みになったら、紹介されている本のうちでどれに心魅かれたか、お知らせください。

 以下、やや雑駁にであるが、三つ付け加える。

 一つは語り口の問題。筆者は恐らく、「古典新訳文庫」の立ちあげを巡る講演などもかなりしているのだろうか、総じて「書きおろし」というよりは「語りおろし」といった風情で話が進んでいく。このスタイルには好みが分かれると思うが -私は時に、もう少し固い文体でも良いのでは、と感じた- 割り切って「そうした本だ」と思った方が、楽しめると思う(この、読み手の側のある種の「割り切り」というのは、そもそも「古典新訳文庫」全般について言えると思う -その姿勢や一部の訳文を批判しようと思えばできなくもないが、それよりは、そうした点があることは心の片隅に置きつつも、実際に読める作品を楽しんだほうが良い)

 二つ目。俗ではあるが、この本は、新たなチャレンジ -例えば技術開発など- に関わる胸躍るノンフィクションの一つとして読んでも良いのだろう。また、筆者がこの文庫の企画を立ちあげた年齢と今の私の年齢が近いので、凡庸ではあるが、物事をすぐに不可能と決めつけず、もちろん知性を働かせながらだが、果敢にチャレンジしていくことの大切さを感じるところがあった。

 最後だが、これは少々二つ目の点と関わる。実はこの文庫の企画が立ちあがったころ、光文社に務める知人がいて、「こんな企画が立ちあがっているけれど、どう思う?」と飲んでいる時に聞かれたことがある。「素晴らしいけれど、売れないでしょう」と即答した。幸い見事に外れたとはいえこんな失礼な「予言」をしたことへの罪悪感もあってか、十五年ほど前のあの会話は、酒場の光景と共に、はっきりと記憶に残っている(ちなみに本書を読み、同様の反応の編集者が多かったことを知り、少しだけほっとした)。

 今回長々とこの本について書き継いできたのは、実はこの罪悪感からくる、謝罪めいた気持ちからでもあるのです。

 

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