ある長篇漫画から思ったこと

註)本当は、長編小説や、あと重要な歴史的事件の漫画化したものは、いいものもあるますし、結構大切ですよね、ということを書きたかったのですが、全然収まりがつかず、途中で切れていることを予めお詫びしておきます。長編小説をネタに書き始めたら、自分の文章がムダに「長篇」になってしまった・・・

 以下、本文です。

 

 長篇小説(漫画ではない)の喜びには、物語自体がもたらす喜びも去ることながら、周辺の書物がもたらす喜びがある。優れた長編小説を巡っては、読み解くツールとして、あるいは作品に新たな角度から光を当てる投光器として、新たな研究書、解説書が書き継がれていく。玉石混交とはいえ、優れたものも数多い。例えば江川卓『謎解き『罪と罰』』(新潮選書、1986年)で、かのドストエフスキーの長篇小説の面白さがわかった、という人も多かろう(私、そうです)。先週触れたチャプスキ『収容所のプルースト』も、そうした優れたものに当然ながら入る。

 この関係は、お気に入りの観光地とその場を巡る書物や映像とのそれに比することもできよう。例えば京都が好きならば、直接の訪問はもちろん楽しかろうが、京都を巡る書物や映画に触れることも喜びとなるはずだ。そうして、直接の訪問ができないとき(今、まさにそれに近いですね)に、後者によって知識を増やしておくことは将来の再訪の味わいを深めてくれるはずだ。

 ところで観光地の比喩からわかるのだが、できるならばやはり観光地を実地に訪れておくほうが望ましい。もちろん、何らかの事情でかの地を訪問できない人が書物などでその地に詳しくなり憧れるという姿には、どこか私たちの心を打つところがあるが、普通に健康であるならば、できる限りその地を訪れておくほうが良いだろう。直接の訪問の有無が、理解に違いを生み出すことは否めない。私自身、かつてフィレンツェに憧れ、直接に訪問する前にずいぶんと書物を読んだが、やはり直接訪れたときに得た印象は圧倒的であった。なんとも卑俗な体験主義に陥っていることはわかっており、申し訳なくもあるのだが、直接訪れることのできないながらもその街に知見を持つ人には一定の敬意を払いつつも、やはり直接の滞在は意義深いということに、ひとまずはしておいて良いのではないだろうか。

 

 もとに戻れば、世に残る長篇小説と周辺書籍との関係についても同様のことが言える。やはりおおもとの本を読んでおくほうが良い。二年前に『失われた時を求めて』を読み終わった時の感想の一つは、「これで周辺の研究書を心置きなく楽しめる!」というものだった。それまでもこの長編小説に関する解説書などは読んだことがあったのだが、気分がいまいち落ち着かなった。美味しい食事を十分に咀嚼せずに流し込んでいる感じ? 何かもっと適切な比喩があるように思うが、いずれにせよ微妙な居心地の悪さが残る。しかし読了後は、落ち着いた気分で解説書や研究書に触れることもできる。読んでいてピントがあっている感じがする、と言えばよいのだろうか。そして、再読の際(いつになるやら!)、きっとそうした周辺書籍の読書のおかげで物語を一層味わうことができることは間違いないだろう。

 

 少し話が飛ぶが、若いうちに長篇小説をいくつか通読しておくと良い、というのは、こうした喜びを味わうためでもあると思う。もちろんおおもとの書籍それ自身から何かを学ぶことは大切だが、実は若いうちに読んだ古典から十分に何かを学び取るというのは難しい(まあ、大人になっても難しいのですが)。何かしらの欠如が残る、というのが実相だろう。しかし一度は曲がりなりにも通読した古典について、自分の読みの不十分さを意識しつつ研究書などに触れていき、将来問題の古典に立ち戻るという経験は、世の広さを知るという意味でも、自分の変化を知るという意味でも、得難い経験となるのではないか。これは、他の類いの経験からは得難いものであるように思う。ケチなことを付け加えれば、うまく図書館を活用すれば、もとでもほとんどかからない。しかももとになる古典が外国語のものであれば、翻訳とオリジナルを買ってくれば、得られる糧はどこまでも深くなる。教養主義的と言われようが何といわれようが、ここで書いていることは正しい、あるいは「正しい」という言葉が傲慢ならば、人生を味わい深くすることに資するものだ、と、こう確信している。

 こうした、一生を通じて付き合っていける長篇小説というのにはどのようなものがあるだろうか? ちょっと整理してみたい。

 フランスであれば、バルザックの一連の作品とプルーストが双璧かしら。スタンダールを入れてみたい気もするが、小説の「長さ」という観点だけからすると、先の二人には少し届かない感じがする。面白いですけれどね。あえて言えば視点が一つの感じが弱点になるのかしら。プルーストの場合、一人称語りであるにも関わらず、複数の視点が感じられる。もとに戻れば、後、読んでいないものだが、昔の人ならば『チボー家の人々』やロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を入れたものだろう。今はあまり読まれなくなってしまっているのはなぜだろう? ともあれ、この年になって言うのもなんだが、いつか読んでみたいと思っている。本当はいずれも青春の書ですよね。あと、『チボー家の人々』については、この書を愛読する少女を描いた美しい小品が高野文子の漫画にあることを付け加えておきます(『黄色い本』 ー多分いつか古本屋に売ってしまった ー痛恨  ーと思ったら、今でも簡単に手に入るようです)。

 ドイツなら『ファウスト』がやはりトップに来るのでしょうか。一応通読はしているのですが、まさに無理やり通読した感じ。ただ、これは、色々と勉強すれば喜びが深くなりそうな予感もします。これは老後の楽しみに。これに、トーマス・マンの一連の作品があるのでしょうね。ただ、これは私の無知によるのかもしれないが、トーマス・マンの諸作品の社会文化的背景を巡る研究書などはあるのでしょうか? 『『ブッテンブローク家人びと』とその時代』みたいな本があったら読みたいのですが。『魔の山』についても同様。あの本で交わされる思想対話(読んだ時、それほどは面白いと思わなかった・・・)の元ネタを解説する本があったら読んでみたい。他に、一生付き合うタイプかは別として、あと、オーストリア文学に含まれるものですが、ムジールの『特性のない男』がありますね。

 

 ああ、しかしこんなにダラダラと書いても仕方がない。専ら自分にとっての整理のために、イギリス、アイルランドジェイムズ・ジョイス!)、イタリア、ロシアなどと続けていきたいのですが、ちょっと長くなるのと疲れてきたので、今日はここまで。

 この項目、続きます。続けなくてもいいのだけれど(苦笑)。

 

M&M's

 

追記)以下の文は、最初、上の文の一部をなしていたのだけれど、ちょっとおさまりが悪いので省きました。一応こちらに残しておきます。フランスものの長篇小説について書いている部分の前にあったものです。

 

「やはりギリシャの古典を知っていると強いだろうな、とは思う(考えてみると小説ではないがそれは措こう)。『イーリアス』なり『オデュッセイア』という作品が、昔日は上で述べた役割を果たしていたことは言うアでもない。ただ、私は一応昔両作品を通読しているが、十分に楽しめなかったことは告白しておく。やはり古典ギリシャ語ができないことは大きいか? あるいは、いくら同じ人間を巡る事柄とはいえ、あまりに時間的に距離がありすぎるからだろうか? これまで書いてきたことと矛盾するが、ギリシャの古典については、とりあえずは子供向きなどにまとめたものを読むので、ひとまずは良いかしらなどと思ってしまう。」