『ハドリアヌス帝の回想』

 単なる自分のための備忘録ですが、ユルスナールの『ハドリアヌス帝』の回想を読み終わりました。

 この本は、長年気になっており、いつかは読みたいと思ってました。若い頃から気になっていたのです。皆さんにもそんな本があるのではないでしょうか? タイトルや装丁がなんとなく気になる、あるいは、会話の端でタイトルを耳にしただけなのになぜか心に残り、いつか読もうと思いながら、ついそのままにしている書物が。私の場合は、この本と、あと以前に触れた『交換教授』などが、そうしたグループに入ります。『ハドリアヌス帝の回想』は、恐らく高校時代にその名を知ったと思うのですが、タイトルの音の響きに惹かれてか、ずっと心に残っていました。

 その後、年をとり、ユルスナールがどのような作家かも耳学問程度には学び、相変わらず心惹かれながらも、なぜかそのままにしてしまっていました。もしかしたら、この書を読む楽しみを先延ばしにしたかったのでしょうか? いや、単なる怠惰でしょう。

 さらに言うなら、五年ほど前には、『ハドリアヌス帝の回想』以上に難解とも思われる『黒の過程』をも読了していたのですが、なぜかこちらには手が出ませんでした(なお、余談めきますが、『黒の過程』を読み終えることができたのは、この小説の舞台となった地域を旅するなどして多少なりとも慣れ親しんだからかと思っています)。

 とは言えそうした書物には、しかるべき時があるのでしょうか、今回、仕事が少し落ち着いてきたこともあり、一挙に読了することとなりました。期待に違わず、楽しむことができました。

 しかし、何が面白いのでしょうか?

 タイトル通りの書物です。ハドリアヌス帝が自身の生涯を、後継者と目していたマルクス・アウレリウスに物語る、というものです。もちろん語られる出来事の細部はそれなりに面白い。遠征、戦争、異民族との交渉、宮廷での陰謀などはそれなりに興味を惹くものです。ただ、それらが「波乱万丈」といった形で語られるわけではない。読み進めながらも、「一体何がこの小説の魅力をなしているのか」という問いが、しばしば浮かんでくるのです。

 二つ考えてみました。

 一つには、やはりハドリアヌス帝の魅力があるでしょう。万人に好かれる人物とは思いませんが、ユルスナールの描き出すその内面は興味深い。非常に実際的でありながら、文学に惹かれる人物でもあります。人間関係に対して非常にクールで、妻に注ぐ眼差しは相当冷徹であるにもかかわらず、愛人(彼は同性愛者でもあります)の死には激しく動揺します。こうした多面性、あるいは矛盾が一つの人格に統合され、スケールの大きさを見せている点が、この書物の第一の魅力となっているのでしょうか。

 もう一つは、少々大げさですが、「運命に対する姿勢」というものが挙げられるように思います。ハドリアヌスは、なるほど、意志的な人物ではありますが、世界が自分の思い通りにはならないことを心底理解しているように見えます。僥倖も不運も、自分の思い通りにはいかぬ「巡り合わせ」によるところがあることを、明確に意識しているように見えるのです。そうした哲学、あるいは人生観が、明確に語られているわけではありません。しかし、彼の語りを支えるのは、そうした世界観、ある意味での人間の無力を見つめる心であるようにも思うのです。やや脱線しますが、この書物は「老い」に対する眼差しも厳しい。しかしそれもまた、そうした世界観から来ているようにも思うのです。いずれにせよ、幸不幸が当人の資質、能力と過剰に結び付けられ、「個」に対して過剰の重圧がかかる現代、こうした世界観は、解毒剤として重要ではないか、と思うところです。

 

 正直に言えば、ある程度納得できるまで読み切ることができた、という感じはいたしません。この書物が要求する成熟の度合いには自分がまだ到達していないようにも思う。再読が必要な書物でしょう。

 史実に相当に忠実な書物とのことですから、この時代のローマ史を少し勉強してから読み直すと一段と面白いのかもしれません。

 いずれにせよ、十年後くらいに読み直すなら、さらに味わえるようになっているのかもしれません。翻訳は美しく、日本語でも読んでも問題ありませんが、フランス語原文もとても美しいと言われています(少しだけ眺めてみましたが、私のフランス語力では十分には鑑賞できていないと思う)。再読の時には、仏語原文も傍らに置きながら、あるいはそちらの方をメインにして読み進めることができれば、などとも夢想しています。

 この書が、そうした「一生の付き合いの書物」になってくれればなどとも思うのです。

 

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