『カルメン』 -小説とオペラと

 エラソーにあれこれ言いながら『カルメン』の原作を読んでいなかった、と先週書いたけれど、さらに正直に告白してしまうと、実は先週のあの記事を書いた時点では、オペラの『カルメン』すら観た(聴いた)ことがなかった。数多の有名な旋律にはなんとなく聞き覚えがあり、プロットは知っているということで、すっかりわかった気になってしまっていたのだろう。知られた作品にありがちなことだ。それでいてあれこれ書き連ねるのも気持ちの収まりが悪い、ということで、先週末を利用して、生まれて初めて全曲通して聴きました。

 

 結論を先に書いてしまうと、この『カルメン』という作品は、オペラもいいけれど、小説と比べてみるとそれぞれの個性が際立って一層よい、ぜひとも皆さん、そのうち自分なりの比較をぜひなさってみてください、というものです。

 

 オペラとしての『カルメン』の魅力については私が語るまでもない。以下、どちらかと言うと小説『カルメン』に好意的な記述を続けるけれど、オペラ作品としての素晴らしさを否定する気は毛頭ありません。まだ聴いたことのない方はぜひ通して聴いてみてください。

 

 ところで、オペラと小説に共通する「フィクション」という観点から見た場合、その優劣については、言うまでもなく小説に軍配が上がる。前回も触れたけれど、第三者の報告という形をとるメリメ原作の枠構造により、読者は登場人物の情念のドラマを、距離をとって鑑賞できる。だからといって、ドラマ性が弱まりはしない。むしろ、「距離」が逆に、情念の強さを一層読者に感じさせている。また、オペラ作品では状況に流されるだけの情けない男とも見えるホセが、小説ではずいぶんと異なった姿を見せる。光文社古典新訳文庫版『カルメン』の翻訳者、工藤庸子氏の言葉を借りれば「ドン・ホセは自分を分析する言語を持っている」(この評は、後で紹介する記事から引用しています)。原作の最後に付された報告書的付記も、小説の側の知的な枠組みを際立たせている。

 改めて、原作においては全体を支配する「知的」な枠組みが、結果的にカルメンとホセとの情念のドラマを際立たせる背景となっている。あるいは、剥き出しのまま差し出されるなら人を辟易させる情念も、この枠組みにより様式化されていると言えるだろうか。

 

 オペラの方も、カルメンとホセのドラマを相対化する視線がないわけではない。オペラのオリジナルの登場人物ミカエラが、そうした視点を提供しているともいえる。ミカエラの視点は、二人の破滅を言わば「社会的常識」の側から見つめる役をも果たし得るはずだ。もっともミカエラは、ホセを献身的に愛するという与えられた(男にとっては都合のよい)役柄のゆえにか、カルメンとの対抗という図式にすぐに引きずり込まれることになり、結果的に、二人の情念を十分に相対化する役を果たし得ていないように思う。

 そうした結果、オペラのほうの『カルメン』では、様々な情念があまり様式化されず、むき出しの形で表れてしまっていると私には思える。音楽之友社、オペラ対訳ライブラリーで『カルメン』(2000年刊行)を訳した安藤元雄は、解説で、「ここにあるのは単なる痴情沙汰ではない。スペインの風土に名を借りた、男と女の間のぎりぎりの真実なのだ。」(同書、p. 142)と書いているが、私は同意しない。ここにあるのは「単なる痴情沙汰」だろう。ただし、急いで付け加えるけれど、だから悪いというわけではない。「男と女の間のぎりぎりの真実」と「痴情沙汰」の違いというのは意外と見極め難いように思うし、あと、オペラ作品であれば、まずは評価の基軸は音楽であるべきだから。もとが「痴情沙汰」だろうがなんだろうか、それが優れた音楽へと昇華しているかどうか、それが専らの問題だろう。また、「オペラ」というメディアの性質上、過度の分析的視点は鑑賞の邪魔になるだろう、という意見もよくわかる。その意味では、知的な相貌を備えたメリメの原作を、観客を三時間弱飽きさせずに引き込む台本へと仕立て上げたアンリ・メイヤックとリュドヴィック・アレヴィの腕前は、やはり際立ったものなのだろう。

 

 『カルメン』という作品が素晴らしいのは、小説とオペラのいずれもが、同じプロットに依りながらもそれぞれの表現媒体としての特性をしっかりと生かしている点にあるように思う。だから、これら二つを比べてみると、「小説」と「オペラ」という二つの表現のあり方の魅力と弱点とが、よく理解できるのではないかと思うのだ。優れた文学者や音楽学者がこの二つを比べたらどんな言葉を紡ぎ出してくれるのか、ぜひ見てみたいようにも思う。

 なお、上で触れた工藤庸子氏の記事は、以下から読むことができます。今述べた「比較」が直接の主題となっているわけではないですが、そうした作業の面白さを想像させるものとなっています。

 

https://www.kotensinyaku.jp/column/2019/10/006876/

 

M&M's

 

追記:なお、私が観たのはアンネ・ゾフィー・フォン・オッターカルメンを演じたもの(2002年のクライドボーン音楽祭のものです)。突き抜けていて面白いですよ。若き(今でも若々しいけれど)フィリップ・ジョルダンが楽しそうに指揮をしているのも印象的です。