『天地明察』を巡って

 時々気晴らしに、無料のマンガを読む。皆さんご存知でしょうが、無料なのはせいぜい最初の数巻で、続きを買ってもらうために無料になっているわけだ。この戦略にもろに乗ることには少々の躊躇いがあるのだけれど、そんな「躊躇い」のために楽しみを減らすのも、と思い、「日本の出版界への貢献」と言い聞かせつつ、続きを購入することもある。場所をとらぬようにと、電子版で購入することも多い。

 タイトルの『天地明察』は、もともとは沖方丁による小説で(2009年)、映画化もされ(2012年)、そして漫画にもなっている(2015年完結)。ちょっとしたブームにもなっていたと記憶するが、当時はいずれにも触れていない。単に関心がなかっただけだと思う。

 しかし先日、冒頭で触れた出版社の戦略にまんまと乗ってしまい、マンガで通読することとなった。全9巻で終わるというのもありがたかったが(先日知人に7SEEDSを薦められたのだが、全35巻というのはさすがに・・・)、何といっても、17世紀冒頭に算術をも用いつつ正確な観測に拠りながら暦を作るというのがどういった作業なのか、せめてそのあらましだけでも感じとってみたかったのだ(もちろん、詳細はわかりませんが)。

 いや、それ以上に、主人公渋川春海の一途な生き方に、心打たれるという部分が大きかった(渋川の一途さについてはここでは触れない-興味をお持ちになった方は、お読みになってみてください)。もちろんフィクションであり、実際の春海が事実そうした人物であったかはわからない。そのことは意識した上だが、一つの事に打ち込む人物に心をときめかせることはなんとも心地よい。恐らく現在私たちが、複数の事務的な仕事の同時並行処理を求められているだろうか、そのゆえに一層、一事に身を捧げる人に、心打たれるのであろう。

 余談だが、こうした「一途さ」で人の心を打つ作品としては、辞書編集の現場を描いた『舟を編む』を思い出す。こちらについては、今度は、小説・アニメは未見で、映画しか観ていないのだが、映画館で観た時に、「俗情に流されているな、オレ」と思いつつ、結構感動してしまった。加藤剛小林薫といった俳優は、「この道一つ」に打ち込む人物を演じさせると、実にいい味を出すと思う。ついでに言っておくと、この映画のヒロインは宮﨑あおいが演じているわけだが、未見の『天地明察』でも、渋川春海を支えるヒロインを演じているのは彼女。「この道一つ」に生きる人の側にいる女性に宮﨑あおいを持ってくるというのは、完全に男性の側のある種の願望を反映していると思う。私、色々と妄想癖はありますが、この願望は共有していない、というか、ちょっと肯けないところがある。

 

 『天地明察』に話を戻せば、この作品のもう一つの面白さは、現在のそれとは異なる算術(数学)と人間との関係を描き出している点にあろう。

 現在であれば、数学それ自体の面白さもさることながら、様々な現象を記述する道具としての数学が重視されると思うのだが、『天地明察』で描かれる算術は、「人の生き方」と密接に結びついているように思える。この道に心奪われた人々が、問題を絵馬の形やその他の形で出題し、互いに解き合い、切磋琢磨している。ここにあるのは、武道をモデルとしつつ、算術に取り組むことを人間修行と見なす姿勢ではないか。別にそれをとり戻そうなどと主張したいわけではないが、算数や数学にそうした側面があることは心に留めておきたいとも思う。正確な証明の論理を学ぼうとする気持ちは、世の道理を貴ぶ気持ちにも通じよう。

 ところで、もう一つ思い出したのは、デカルトの話。数理物理学の祖と言って良いだろうデカルトは、渋川春海の父親ほどの世代にあたるが、数学を用いての自然学研究にのめり込むきっかけの一つは、年長の友人ベークマンと知り合ったことであった。この二人は1618年11月10日に知り合ったのだが、きっかけは、道端にフラマン語掲示されていた数学の問題について、デカルトが説明をラテン語でベークマンに求めたことだったそうだ(Cf. G.ロディス=レヴィス『デカルト伝』(飯塚勝久訳、未来社、1998年)、p. 60)。この件、以前から知ってはいたが、イメージが今一つイメージが湧かなかったのである。しかし、今回『天地明察』をマンガで読んだことから、「数学(算術)の問題を道端に掲示する」という件について、だいぶイメージが湧いてきた。洋の東西の違いはあるが、数学(算術)への向かい合い方に、共通点があったのだろうか、と思う。もちろん、デカルトは、こうした数学を一挙に現象記述の手法として磨き上げていったわけだが。

 そうしたことを思うと、優れたマンガ大国日本の若き描き手の誰かが、本格的に若き日のデカルトをマンガに書いてくれればなとも夢想する。ベークマンとの友情と決裂など、波乱に満ちたデカルトの青年期、上手に描くと、予想以上に魅力的な作品になると思うのですが、どうでしょうか?

 

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