皆既月食がもたらすもの

 11月8日(火)は皆既月食だった。ご覧になった方も多いと思う。私も仕事を早めに切り上げて帰宅し、東に開けた住まいのマンションの廊下から眺めた。ぼーっと眺めているだけだが、それでも神々しいような気持になるのは、不思議なものだ。
 ところで、私の家から10分強歩くと、やはり東を一望できる高台に出る。昨年5月26日の皆既月食の際は、家族でそこまで歩いて月食を眺めた。幹線道路沿いに車が並んで相当混雑していたが、幸い徒歩の私たちはさらに、車の入り込みにくい高台へと上り、そこから欠けていくのを眺めたのだった。
 今年も同じようにするかどうか、我が子に尋ねてみたところ、「そこまではしなくていい、マンションの廊下から眺めれば十分」と言う。理由を尋ねると、「昨年のあの車の行列を見て、別に天文マニアでもないのに、そこまで大騒ぎするのもなんだか、という気分になってしまった」と応える。要は、車を連ねて騒いでいる人々に批判的なのだ。私も十代はそういったところがあったので、その気持はよくわかる。
 自己弁明ではないが、十代でそうした気持ちを持つことは、決して悪くないと思う。とはいえ、年をとり、当たり前だが考えは変わった。わかるかどうかと思いつつ、我が子には次のように話した。

 「なるほど、確かに、普段は月も星も観ないのに、皆既月食だというと大騒ぎすることには、ちょっと恥ずかしいところはあるかもしれない。けれでも、あれだけの人が騒げば、その中には本当に天体が好きになる人も何人かは出てくるだろう。なんとなく車を繰り出した人の子どもが、これをきっかけに将来立派な天文学者になるかもしれないじゃないか。だから、あれはあれでいいんだよ。ああした「お祭り」があるから、そのジャンルに興味を持つ人が少数だけれど必ず出てくるのではないかな。」

 我が子は、「まあそんなものかもしれないね」とは言っていた。こうした「イベント」については、興味があることならすぐに参加する熱意と、イベントに付随する「騒がしさ」に対する冷めた視線と、「にもかかわらず、それはやはり良いことなのだ」と、事柄を淡々と肯定するまなざしを持っていてほしい。

 

 ところで、類似の構造を持つ事例は多くあるのではないか。
 例えばクラシックのコンサート。コロナ前であれば、私は比較的よくコンサートに行っていた方だと思う。楽譜を見たり、演奏される曲のCDを聴くなどして予習もする方だった。とはいえ、適切な鑑賞能力を持っているとは言い難い。どこか、いや、かなりミーハー的なところもあると思う。とはいえ、真に鑑賞する力を持つ、演奏家たちが心から歓迎するような聴衆からだけでは、コンサートは単純に経済的に成り立たないだろう。ごく当たり前の真実ではあるが、「ミーハー」な人たちがいるからこそ、多くの演奏会は、まさに演奏会として成立している。

 

 書物についても、似たようなことが言えると思う。
 少なからぬ読書家の書店員の方は、自分の広い読書の中から、「これは」という人の心を動かす書物を書棚に秘かに並べていらっしゃる。しかるに、そうした書物が売れることは、珍しい。たまたま通りがかり、ポップに惹かれて購入なさる人もいるだろうが、その粗利だけでは書店は単純に成り立たないだろう。やはり、新聞の書評や有名人のお薦めなどがきっかけで爆発的に売れる本などがあって、「書店」の経営それ自体が成り立っている。そうした爆発的に売れる本の中には、首をかしげたくなる内容のものもあろうし、また、情報に流されて買っている人も多かろう。この事態に批判的になることは簡単だ。けれども、「書店」という場 -人々が書物との偶然の出会いとする場- が今後も成り立つためには、やはり、そのようにして「売れる」本があるのは、良いことなのだろう。

 

 世の中は「良き」出会いだけで成り立つものではない。それは時に言われるような、悲しいことではない。「良き」出会いが成り立つためには、様々なものを含めて、とにかく「多くの」出会いが成り立っていることを、まずは肯うべきなのだろう。「良き」出会いだけを組織しようとすれば、逆に、事柄を破壊してしまうような気がする。
 うまくまとめきれないのだが、こうした視角には、この世界や社会をどのような面で肯定するのか、これを見極めていくヒントが隠されてるような気がする。

 

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