今年の大河ドラマから

 多くの方々と同じように、今年の大河ドラマにはしっかりとはまってしまった。毎週20時にはしっかりとテレヴィの前に陣取り、一年しっかりと楽しんだ。

 理由には、なんといっても脚本家の方の技量がある。この方の作品、ドラマはそれほど見てはいないのだが(単にできるだけ生活の中にテレヴィを入れないようにしているからである)、映画は恐らくすべて見ている。演劇的な緊張感を随所に織り交ぜたストーリーの進め方はひたすら見事だと思っており、この方と同じ時代を生きていることは、わが身の幸福の一つに数えている。そういえば、大河ドラマのラストシーンも、極めて演劇的だった(多分、そのままの脚本でも舞台に載せることができると思う)。

 また、母方の故郷が伊豆ということがあり、物語前半の舞台に何とはない親しみがあることも理由となっている。少し話がずれるが、この伊豆との関りのゆえに、幼いころ、やはり大河ドラマでかつ今回とほぼ同じ時代を扱った『草燃える』は、毎週楽しく視聴していた。もちろん細かい記憶はないけれど、公式ガイドのような本を何度も何度も読んだ記憶などは、鮮やかに残っている。今回のドラマに話を戻せば、件の作品を見ながら『草燃える』を思い出し、その時の、幼いころの単純に物語を楽しむ心が蘇るしたことも、ドラマを楽しむことのできた理由であろう。

 

 ところで、この「ブーム」はまだまだ続きそうな予感がしている。折角なので、この時代を扱った本をいくつか読んでみたいという欲が出てきたのだ。

 例えば、以下のもの。これは、知人がSNSで紹介していて知った。

 

西田友広『16テーマで知る鎌倉武士の生活』(岩浪ジュニア新書、2022年)

 

 今回のドラマを見ていると、大きな物語の背景にある武士たちの生活がどのようなものなのか、彼らの経済的基盤はどんな感じなのか、といったことに自ずと心が向く。そうした素人の疑問に、この本は答えてくれる予感がする。まだ手に取ってもいないのだが、ドラマの記憶が暖かいうちに読んでみたい。

 

 また、図書館をふらふらしているときに見つけたものは、次のもの。

 

坂井孝一『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』(講談社選書メチエ、2014年)

 

 こちらもまだ読んではいないのだが、なかなか挑発的なタイトルであり、政治家としての実朝を描くものではないかと期待する。京都との政治的関係がカギになりそうであるので、かのドラマでの後鳥羽上皇役の俳優の方の快(怪)演が心に残るうちに読んでみるとよさそうだ。なお、検索をかけてみると、この方がドラマの時代考証をなさっているそうで、その意味でも読んでみると勉強になりそうだ。

 

 しかし、このドラマから拡がっていく読書というと、『吾妻鏡』がやはり最終的な目標とはなるのだろう。実はドラマが始まったころ、ドラマで出てきたシーンのいくつかについては、対応する『平家物語』の箇所を子どもと読むなどした。しかし、『吾妻鏡』の場合、史書という性格からして、そうした読書に向くかどうか。いずれ試してみたいところではあるが、ともあれ通読は大変そうなので、まずは竹宮恵子による漫画版から入ってもよいのかもしれない。

 

 ところで『吾妻鏡』まではいかぬまでも、私と同じくこのドラマを楽しまれた方には自信をもってお勧めできる作品がある。太宰治の『右大臣実朝』である。こちらは、今年の8月に岩波文庫に入った。書店で見かけた時に、「岩波文庫大河ドラマに便乗する時代か」と、なんとも感慨深い気持ちになった(批判的な意味ではありませんーむしろ、いい意味です)。私は太宰の良き読者ではないので、恥ずかしながらこの小説の存在自体知らなかったのだが、なかなかの名作だと思う。なんと言っても文章が良い。私はところどころ声に出しても読んでみたのだが、恐らく、文章は相当推敲されているのではないだろうか。「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」という、恐らくは本作の主導的な観念を言い表す言葉も実にいい。

 また、この極めて息の長い文章で語られる実朝の肖像は、魅力的であると同時に、どこか人を不安にさせるところがある。公卿による厳しい評価が途中で挟まれることも、実朝像を複合的なものとしており面白い。やはり件のドラマで若い俳優の方が見事に演じておられた実朝像を重ねつつ読んでみるのも楽しかろう。

 

 もしかしたら既にどこかに記されているのかもしれないが、このドラマの脚本家の方、こちらの『右大臣実朝』をかなり参考になさったのではないか。実朝を演じた俳優の方は、実際こちらを読んでいらっしゃるようだが、あるいはそう勧めたのは脚本家の方かもしれない。そう考えると、時に話題になったナレーターの方(あれは、北条家に仕える女性ということでよいのだろうか)を巡るアイデアも、もしかしたら、太宰のこの作から来ているかもしれないとも思われるのだ。『右大臣実朝』は、実朝の近習だった人物の回顧談という形をとる。もちろんこの人物は男性なのだろうが、言葉遣いはどこまでも優しく流れていくようで、そこだけ取り出せば、女性でも通る文体かと思う。だから、私は、この作を読みながら、時に頭の中で太宰の文章を、あのナレーターの女性の声で響かせてみた。そうすると、なかなかしっくりくるのである。私があの脚本家の方にお近づきになる機会はなかろうが、万が一にもそんな機会があれば、太宰のこの作品とドラマとの関係について、ぜひ色々とお聞きしてみたいところである。

 

 しばしば指摘されることだが、太宰はこの作を昭和18年に執筆している。前年昭和17年が実朝生誕750年だったこともあろうが、「実朝」という選択には、やはり、人の想像力をかき立てるところがある。同年には、小林秀雄が「実朝」を執筆し、斎藤茂吉が『源実朝』を出版している(ただし、後者は、昭和7年に出た同名のものの再刊かもしれない)。これまで多くの記事に書かれていることではあるが、同じ時期に太宰と小林という個性的な二人の文筆家が共に実朝へと眼差しを向けたことの意味は、いずれゆっくりと考えてみたい。

 

M&M's

 

※12月29日記