『輝く日の宮』を読む

 新古書店に行き、古の、といっても、二、三十年前に名が売れた小説を買ってくることがある。百円程度で買えるのだからありがたい。そうした本が積み重なっていき場所をとるのだから、悪癖ではあるのだが、思いもかけぬ収穫が時に得られることもあり、やめることができない。今日の話題は、そうした「収穫」の一つ。

 

 そのようにして我が家に積まれている書物に丸谷才一の小説がいくつかある。丸谷才一というと、そのエッセイや書評はある程度楽しく読んでいるが、残念ながら小説を読んだことはなく、これらの小説も「積読」のままであった。

 さて、そうした一つである『輝く日の宮』(2003年)、ハードカヴァーで装丁もそれなりに雰囲気があるが、その分、場所をとる印象が一段と強い。読んではいないがもう処分してしまうか、などとも思ったが、先週、「えいや」と読み始めてみた。最近こちらに執筆する記事が、少々「物騒」というか、やや攻撃的であったことは否めない中、ネタにできないだろうか、という底意があったことも否めない。

 すると、思いもかけず面白く、それなりの厚さではあったが夜の時間を利用して、数日で読了できた。

 

 主人公は女性の国文学研究者、杉安佐子。彼女の生活を、家族や勤務先の大学の状況、あるいは同業者との交流を織り交ぜつつ描いていくものだが、彼女の研究の内容も、実に自然な形で織り交ぜられていく。芭蕉がなぜ東北に行ったのかを巡る議論(私が読んだ単行本版初版で71頁-93頁)などは、真偽のほどは判断できないが、説得的で面白いものだった。その他、登場人物たちの人間関係が、作中で取り上げられる文学作品の中の人間関係と微妙に重なる点や、丸谷才一が文章の様々なスタイルを試している点も興味深く、知的な仕掛けを持つエンターテインメントとしてお勧めできる(女性の描き方が、少々男性に都合の良いものになっているような気もするが、それを乗り越える契機があるようにも思う)。

 ところで、少なくとも私にとってこの小説が興味深かったのは、『源氏物語』の「桐壺」の後に、本当は「輝く日の宮」(この小説のタイトルに他ならない)という帖があったが、藤原道長が作品の面白さのために紫式部に省かせたのではないか、という仮説を紹介している点。これが実質的にこの小説の最終的な主題になってもいる。「輝く日の宮」の存在については、学界でもこれを主張する人がいるようだが、丸谷才一の独創性は、その消滅に藤原道長の意図を介在させた点であろう。この仮説を織り交ぜたことで、この作品の内容は通常の小説にはない重層性と豊かさを得ており、また、表現技法の拡大にも繋がっている。また、私は『源氏物語』については、ほとんど何も知らないのだが、この作品を読んだことで、多少とも興味が湧いてきた(もっとも『源氏』という大海に一人漕ぎ出すことはできないので、ガイドが必要ではあるのだが)。

 

 つまるところ、小説としても『源氏物語』への誘いとしても、この『輝く日の宮』という小説、優れているのではないか、というのがこの小文の趣旨なのだが、加えて言えば、来年の大河ドラマの主人公は紫式部である。仄聞するところでは、式部と道長の関係が中心となるようだ。二人の関係は、『輝く日の宮』でも重要な主題となっている。来年の大河ドラマを観ようかしらとお考えの方、こちらの小説をお読みになっておくと、共通点と違いがそれぞれに際立ち、観賞の楽しみが倍増するかもしれません。

 

M&M's

(5月25日記)