ゼラチンと寒天

熱くなってくると途端に食欲が激減します。

若いころの食欲は一体どこにいったのでしょうね?

最近常備しているのがゼラチンと寒天です。

どちらもつるっとしていて食欲が無くても無理なく食べられます。

20代の頃にお菓子作りに凝っていてよく作ったのですが、その頃に比べると段違いで使い勝手が良くなっていて驚きました!

どちらも暑くて火を使いたくないのでレンジでチンして作るのですが、ほんとに便利!ゼラチンは耐熱性のガラスコップに50mlくらいお水をいれて600wで1分。

これで80度以上になるので取り出して、そこにゼラチン一袋を振り入れます。

さっと溶けるので便利。

つぎに砂糖をいれてかき混ぜて、その後に豆乳を入れて終わり。

何がいいって冷たいものでもそのままでいいっていうのは大変助かります。

昔のはこんなにさっと溶けなかったし、最初にまず水(お湯だったかな?記憶が曖昧)を少しいれてふやかさないとだったんです。

その後に熱した液体にいれてたはず。

それでもよくよく混ぜないとダマが出来た記憶。

もしくは上手く混ざらなくて分離しちゃうとかだったかなぁ。

それが全くないのが今のゼラチンなんですね~。
使っているのは森永のクックゼラチンなので、よそ様の製品がどうなのかはちょっと不明です。

近所のスーパーで手に入るのでこれをもっぱら使っています。

寒天はこれよりちょっと手間がかかるのですが、それでもレンジで出来るのでこの二つを使って豆乳プリン(ゼリー)と牛乳寒天を作って冷蔵庫に常備しています。

寒天は他にところてんにしたり、餡子をいれて水ようかんにしたり。

そういえばところてんは二杯酢で食べますか?黒蜜で食べますか?

私はどちらもいけるので日によって食べ分けてます。

お酢のさっぱり感が今の季節に合いますし、黒蜜も美味しいので黄粉をかけたりして食べます。

この先少なくとも二か月間はお世話になりそうです。

他にもバリエーションを増やせるといいなと思っています。

 

今回も他愛のない話ですが、一応書けたので良しとします。

それではまた~。

(6月26日、記)

aberina

 

 

 

涼しいのは今夜が最後かな(近況報告)

深夜2時23分。

外は雨が降っています。

雨が降っているので湿気は70%超えで蒸し蒸ししていますが、網戸からはわずかに

涼しい風も入ってきます。

4,5月と落ち込みが激しく、ままならない日々を過ごしていましたが、ようやく落ち着きを取り戻しつつあり、ここ最近はベランダの植物の、真夏への対処と、ずっと聞き専だった中国語の勉強をノートにまとめる事に着手し始めました。

視力が大分落ちてしまって、眼鏡をかけていてもはっきりとは字が見えず、書き取りも難しいのですが、久しぶりに勉強する事の楽しさを感じています。

幾つになっても新しい事を始めるのは可能ですが、こうも体力と視力が悪くなってしまうとやはり、若いうちに色々やっておくべきだったと思いもします。

それでも中国語を学ぶうちに日本語の事も再勉強してるような気持になって楽しい時間を過ごしています。

果たして身に着くかは不明ですが、ゆっくりこつこつとやっていけるだけで十分かなとも思います。

 

話しは変わりますが、私が住んでいる所は明日の午前中、大雨だそうです。

それが終わったら連日34度、35度と連続で真夏日が続いて、その後はもう30度を下回る事がないような天気予報でゲンナリしています。

まだ6月なんですけどね…。

毎年毎年夏が猛威を振るいすぎのように思います。

本当に生命に危険な高温です。

世界的規模での高温なので、どこにお住まいの皆さまにとっても大変なのではないでしょうか。

私の住んでいる所は立地の関係で、冷房をいれても涼しくならないのですが、それでも出来る事を少しでもして、この先の暑い日々を何とか乗り越えていきたいと思います。

 

以上、近況報告でした。

(書いているのは6月15日ですが、16日付で掲載しています。悪しからず。)

 

aberina

〈若きポーランド〉 ー色彩と魂の詩 1890-1918

 先日京都に行った時のこと。

 業務の翌日に時間があったので、奈良で開催されていた「超 国宝-祈りのかがやき」に行こうかしらそれとも京都国立近代美術館で開催されていた「〈若きポーランド〉 ー色彩と魂の詩 1890-1918」のどちらに行こうか、と悩み、心はなんとなく前者に傾いていた。奈良にもずいぶんと行っていない、というのが大きな理由であった。

 しかし、業務の日、打ち上げでしこたま呑んでしまった私は、それなりの二日酔いとなってしまい(最近はそんなことはほとんどないのですが、緊張していたようです)、翌日はギリギリまで眠り、ギリギリでチェックアウトすることとなってしまった。

 当然奈良に行くことはできない。京都国立近代美術館も、それこそギリギリである。体調はよろしくない。「もう一層のこと、このままどこかの喫茶店ででものんびりしようかしら」と脳内で囁く声もしたのだが、「いや、ここで何もしないでいたら、二日酔いの自己嫌悪がさらに悪化するぞ」と思い直し、MoMAK(The National Museum of Modern Art, Kyoto)まで出かけてきた。そして、一時間ほどの速足で、ではあるが、独立前三十年ほどのポーランドの美術を観賞してきたのである。

 結果として、正解であった。

 まずもって、これまで意識していなかったポーランド美術というものを意識することとなった。また、外国支配下(この美術展が扱う時期、ポーランドは独立していなかった)において美術が持つ意味を実感することとなった。詳細を書く能力はないが、当時のポーランド美術にジャポニズムの影響があることを知ったのは、ちょっとした驚きでもあった。ミュシャ(ムハ)と相当に雰囲気の似た絵があったのも、興味深い。

 速足での観賞であったため、後で見ようとカタログを買ってきて、自宅に戻ってからもちょくちょく眺めているのだが、やはり、短時間でも実物を観てきたことは、観賞に役立っていることを痛感する。カタログを観ていると、実物を前にした時の感慨が微かだが戻る気がし、同時に、凡庸な言い方ではあるが、往時のポーランドで芸術家たちが作品にこめた思いが感じ取れるような気も、またするのである。

 勢い余って、近くの図書館で『珠玉のポーランド絵画』(創元社、2012年)という、ポーランド美術を通覧する大著を借りてきて眺めたりもしている。

 相変わらず他にも色々と仕事があり、あまり時間を割くことができないのだが、楽しみがまた一つ増えたような思いだ。

 

 今回奈良の展覧会に行けなかったのは、恥ずかしながら二日酔いのためである。もっとも、奈良で観賞できる作品の少なからぬものは、日本にいる以上、時間とお金をかければ、どうにか観賞できるものであろう。しかし〈若きポーランド〉の方は、そうそう実物を観賞できるわけではない(ポーランドまで行けば別だけれど)。今回はそうした珍しい機会を、確実に活用できたわけだ。そのように考えれば、「二日酔いが私を正しい道に導いてくれた」と言えなくもない。いや、牽強付会も度がすぎるか。

 

M&M's

(6月26日記)

 

「疲労」のコントロール

 6月6日付の記事だが、遅れに遅れて19日に書いている。とは言え、6月6日前後に漠然と考えていたことを記しておきたい。

 

 以前記したように、5月頭に走り始め、比較的悪くないペースに回復している。だいたい一時間11km程度は走ることができる。

 とはいえ、ちょっと調子に乗って時速12kmくらいに上げると、一時間走り続けることはできない(45分くらいでダウンだろうか?) 私は調子に乗りやすい性格なのでついついスピードを上げたくなるのだが、ここはぐっと我慢するのが大事なのだろう。無理のないペースで走る時間を少しずつ伸ばすこと、決まった時間内で走るスピードを少しずつ上げることが大切なのだと思う。

 ところでもう一つ、5月にある程度真面目に走って思ったのだが、やはり疲労が蓄積しやすくなっている。自分では意識していなかったのだが、足にそれなりに疲れが蓄積しているらしい(6月の頭にそう感じることがいくつかあった)。色々な本を読んでみると、やはり「無理せず休む」ということは結構大切なことらしい。走るという営み、慣れてくると大変心地よくもあるので、ついつい毎日したくなるのだが、ここはぐっと我慢なのだろう。実際、「完全休養日」を入れる方が、結果的に体力増進によいようだ。

 アスリートほどの訓練ではないのだから毎日トレーニングをしても問題ないだろう、と思っていたが、年齢を考えるとそういうものでもないらしい。

 もっとも、そうした肉体の変化を観察しながらこれに適切に対応することは、楽しくもある。

 

M&M's

(6月19日記)

 

 

 

 

『最高の花婿』を観て思うことなど

 映画『最高の花婿』は、十年ほど前のフランスの大ヒット映画。フランス本国での観客動員数が1300万というから、「大ヒット」という言葉では片づけられない。

 観ていない方のために粗筋を記しておけば、要は四人娘の結婚を巡るドタバタである。保守的で金銭的には裕福な四人の娘を持つクロード夫妻は、できれば娘をカトリックの白人と結婚させたいと思っていたが、長女はイスラム系、次女はユダヤ系、三女は中国系移民と結婚する。「せめて四女は・・・」とクロード夫妻は思っているのだが、と記せば、大体の筋は想像通りに進んでいく。

 私は諸事情あってこの映画を何度か観ているのだが、少なくともエンターテインメント性には相当優れており、加えて、フランスにおける異文化摩擦の教材としても相当面白い。一部、フランス語の表現と字幕が異なるところがあるが、これもまた「なぜそうした翻訳にしたのかを考えると、面白いところである」(一例を言うと、婿たちを呼ぶ席でクロードの妻が「ダライ・ラマの話とかはやめてよね」と言っているのだが、「宗教問題には触れないでね」と訳されていた)。

 フランスに何かしらのことで興味がある、という方は、ぜひ一度はご覧ください。

 

 ところでこの映画を観るといつも思うのだが、色々な要因が「理想化されているな」とは思う。皮肉ではない。せめて「理想化」しないととりあえず目を向けようとすら思えない現実というのは、確かにあるものだ。

 何と言っても父親のクロードが理想化されている。彼は確かにド・ゴール主義でかなり保守的であり、時に差別的な発言もしてしまうが、娘三人が移民と結婚することを(不承不承とはいえ)認めているのである。その後の、婿たちと交流しようとする努力にも涙ぐましいものがある。彼はもはや、頑固な保守主義者などではない。

 婿たちもまた、文化的程度が高く、経済的には豊かだ。だからこそ、フランス文化に適応しつつも自分たちの文化を守り、同時に他の文化をも理解しようとする。

 実際のフランスの状況は、ここまで理想的ではないだろう。これは現実には見たことがないので想像となってしまうだろうが、移民との結婚を認めない保守的な白人カトリックのフランス人、というのは山といるだろうし、移民たちの大半は、この映画に出てくる婿たちよりもはるかに貧しいだろう。

 それでも「理想化」には意味がある。この映画、かなりきわどいセリフが飛び出しており、フランスにおける各民族への偏見や差別意識を結構表に出している。もしも現実に聞いたらば、ちょっと落ち着いてはいられないレベルだ。もしも日本でほぼほぼ似たような映画を作ったら、かなりの率で「炎上」してしまうのではないだろうか?

 しかしこの映画は、理想化されたものとはいえ、「相互理解」という救いがあるからこそ、こうした差別的な言辞をも映像化することができた。現実に触れるためにあえて「理想化」という手法をとっているようにも見える。

 

 恐らくこの映画は、「フランスがこうあってほしい」「移民との関りがこのような方向に向かってくれればよい」という、集合的願望を美しく描いた「おとぎ話」なのだろう(私たちはやはりいつの時代にも神話を必要とするのだろうか)。この映画を観ると、私は、笑い転げると同時に、こうした「おとぎ話」を必要とするフランスという国の現実の厳しさに思いをはせ、そして同時に、このような映画を日本で作ることはできないだろうか、と自問するのです。

 

M&M's

(6月12日記)

                                                                                                                                                                                                                             

映画の記録

 生活がかなり慌ただしく(生活がうまく管理できていないのも一因だが、外的な要因もある)、よい感じでこちらの記事を書くことができない。

 とりあえず最近観た映画など・・・

 

 こんなふうに書くと、「映画を観に行く暇なんてあるのかい」と言われてしまいそうだが、それでも、近くの映画館で上映していたエドワード・ヤンの「牯嶺街少年殺人事件」と「カップルズ」は、それこそ無理をして行ってきた。恥ずかしながらエドワード・ヤンの映画、観たことがなかったのだが、実に素晴らしい。ひと言で言うと「容赦がない」。「容赦がない」という形容が相応しい監督というとダルデンヌ兄弟が浮かぶが、エドワード・ヤンの作品にも、ダルデンヌ兄弟のそれと同じような、冷徹な人間への眼差しを感じる。エドワード・ヤンの方が、一件ユーモアに満ちたシーンも多いため、作品の醸し出す残酷さは一層際立つかもしれない。

 「牯嶺街少年殺人事件」は、実際の事件を取り上げ、台湾の現代史と重ねつつ、一人の少年の焦燥感と殺人に至るプロセスを描くもの。少年少女のリアルな生活を捉える形をとっているが、実際にはとても神話的な作品ではないだろうか。その神話的含意が十分に読みとれたわけではないけれど。

 「カップルズ」は、台北を舞台にした不良少年グループの日々を描く形をとっているが、実際には、自分で人生を選び取っているようでありながら、何かもっと大きなものによって「選ばされている」人々の姿を描く作品と言える。最後のシーンには救いがあるような気もするが、それまでの経緯を振り返れば、この「救い」もかりそめのものにすぎないような気がする。

 いずれの作品も観ていて「気分のいい」ものではないけれど、突き放した気持ちで人生を考えて見たければ、ぜひ観賞してみてください。

 

 あと、「シェルタリング・スカイ」も別途観ました。こちらもなんとも言えず難解な作品でありましたが、堪能しました。1990年前後というのは、もちろんバブル経済ということで問題多い時代とは思うし、ああした時代の雰囲気には「勘弁」という思いだけれど、こうした作品やエドワード・ヤンのような作品が出てきたという意味では豊かな時代だったのかもしれません。

 

M&M's

(6月5日記)

『歩くという哲学』

 哲学書には時に、日常的な営みに繊細な眼差しを投げかけ、その営みの襞に沿うような言葉を紡ぎ出すものがある。そうした書物は、いわゆる「偉大な哲学者」の引用に拠らず、緊張感のある、しかし心地よい言葉を私たちに与えてくれる。

 最近新聞などに取り上げられることの多い(※)、フレデリック・グロ『歩くという哲学』(谷口亜沙子訳、山と溪谷社、2025 年)もそんな本の一つ。山と溪谷社という、普段は哲学書を扱ってはいない、しかしこの書物を出すにふさわしい出版社が関わっていることも好ましい(付記するなら、できるだけ早く、この本をヤマケイ文庫に入れていただきたい)。

 それこそ時間のある時にゆっくりとこの本をご紹介したいのだが、今日は一文のみ引用しておく。

 

「歩いている時には、何もしない。だが、歩くこと以外には何もしなくてよいので、存在することの純粋な感覚がよみがえってくる。子供時代を満たしていた、ただそこにあることの幸福。歩くことで、幼年時代に感じていた永遠の時の流れに、再び身をひたす。[…略…]こうして何日間も、何週間も歩き続ける時、わたしたちから遠のいていくのは、職業や隣人、用事や習慣、厄介事だけではない。複雑なアイデンティティや、自分の顔、仮面すらも剥がれ落ちていく。これまで得てきた知識も、読んできた本も、どんな重要人物と知り合いでも、役に立たない。二本の足さえあれば十分で、あとは目を大きくあけて、見るだけでいいのだから。[…略…]自分の中には、永遠の子供がいる。」(フレデリック・グロ『歩くという哲学』、谷口亜沙子訳、山と溪谷社、2025 年、105-106 頁)

 

M&M's

(5月28日記)

 

※ 私の気付いた限りでは、読売新聞(3月21日)、朝日新聞(4月26日)、日本経済新聞(5月3日)などに書評が掲載されている模様(すいません、全てに目を通してはいないので「模様」と記しておきます)。また、5月24日付毎日新聞には、翻訳した谷口亜沙子氏のインタビューが掲載されているようです。