時計がない!

 昔から時計が苦手だ。中学生の頃、腕時計に憧れてつけていた時期もあるが、すぐに忘れてしまうのと案外邪魔になるとの思いから、結局身に着けなくなってしまった。チェロを弾くというのも、多少はあったかもしれない(演奏の時には外せばいいのでは、というもっともな意見もあるだろうけれど、そうすると、忘れる確率が上がってしまう)。

 学生時代はそんな感じで乗り切った。仕事に就いた後も、幸い、比較的時間を気にせずに済む仕事なので、普段用いているPCとスマートフォンの時計があれば、用は足りていた。もちろん会議の時はアラームをかけるなどするけれど、わざわざ身の回りに時計を置こうという気にはならなかったわけだ。

 ところが一人暮らしを始めるとどうも勝手が違う。職場ではPCをつけているのが普通なので時間の確認など簡単なことだ。しかしわが家にいると、思った以上に手間がかかる。時間を知るためにわざわざスマートフォンを取りに行くのが億劫なのだ。慌てふためいて出かけるような生活をしているわけではないが、時間がわからないと、朝の諸々の作業をしている時の「テンポ感」のようなものがわからない。「ずっこける」というか、リズムに乗れていない感じがする。

 思い返すと、 家族で暮していた折にはリビングと台所、そして洗面所には時計があった(仕事部屋にはなかったが、PCを使って仕事をしていることが多かったので、さしたる問題ではなかった)。そんなことを思い返しながら顧みるうちに、特に、洗面所と台所に時計がないのがいけないのではないか、と思い至った。

 私はとりわけ身だしなみに気を遣う方ではないが、洗面所では人並みにある程度の時間は使う。ある程度時間をかけると言えば、歯磨きだろう。そう、歯を磨いている間に時間がわからないと、なんとなく手持無沙汰であると同時に、これから出かけるまでにこんなテンポで仕事をしようと予定を立てるための一番重要な情報が得られないのだ。台所も似ている。料理を始めれば一定の時間はそこにいなければならないが、今の時刻がわからなければ、それから先の予定をイメージしにくい。加えて、料理をしていると「フライパンの蓋をして5分」といった指示に出会うわけだが、この「5分」はやはり時計で計りたいところだ(1分半くらいなら、数えてしまうのですけれど)。

 「時計を置かず時間に縛られないフリーダムなオレサマ」を気取っていたけれど、いや、これはやはり生活の質が下がる。というわけで、洗面所と台所に置く時計を近々に買いに行く予定です。台所のものは、ストップウォッチ機能がついているものにしないといけませんね。「こんな時計にすると便利だよ」というアドヴァイスがある方は、ぜひぜひお知らせください。

 

M&M's

(7月10日記)

世界初演の曲を聴いてみた

 マニアなどとはとても言えないが、コンサートには年に数回程度行く。基本は室内楽で、曲目に興味を惹かれればオーケストラにもたまに行くといったところである。

 もうそれなりの年なので色々な曲を聴いてきたが、先だって、生まれて初めてコンサートで世界初演の曲を聴くこととなった。特定されないために、細かい構成などは記さないが、演奏者たちのために作曲されたことだけは記しておく。

 曲は、劇的な緊張のたかまりと弛緩とをよく表す、ある種の現代曲に見られるタイプのものだったが、それなりに面白く、15分程の間も飽きることなく聴くことができた。ただ、「世界初演」の曲には難点が一つ。当然のことだが、予習が原理的にできない。何か「事件」らしいことが起こっても、「えっ、今何があったの?」と思ううちに曲はどんどん進んでいくのだから、とにかく曲についていくしかない。だから、終わった後は、「世界初演に立ち会った」という興奮と共に、「今の曲はなんだったのだろうか?」という微妙なフラストレーションも残るものだった。

 だから、聴き終わった直後の思いは、「もう一度聴きたくもあるけれど、CD化されることもないだろうし、難しいだろうな」というものだった。

 

 しかし、この予測は良い意味で裏切られることとなった。

 プログラム全体の終了後、当の曲がもう一度演奏されたのだ。演奏家の方々によれば、「世界初演の曲は、同じ日にしばしば二度演奏される」とのこと。アンコールで再度演奏される、ということも多かろう。もちろん、不可能な場合も多かろうが(「トゥーランガリラ交響曲」をアンコールで最初から演奏されたら、聴衆は困るだろう)、今

回は15分程度の曲であるからこそできたわけだ。「ああ、確かにこんな曲だった」と再認したり、「こんなふうにしていたのね」と発見する喜びはそれなりに大きかった。

 そんなわけで、私にとって初めての「世界初演」に立ち会うという経験を、十分に味わったのであります。

 

M&M's(7月1日記)

 

日記

久しぶりすぎて書く姿勢がおぼつかないけど、とにかく書きます。

・娘が日本人学校に入学しました。環境のそこかしこで「あ、日本!」と感じます。なので、学校と家の往復の生活をしていると、感覚的にはずっと日本にいる感じがします。担任は石川出身のベテランの先生です(手話も英語も中国語もできる、そんな小学校の先生が石川にいるなんて!)。子供たちをよく見てくれていて、娘の面白発言を教えてくれたりもします(「わたしもそろそろ(クラブ活動の)体験なのよ」)。よい先生とお友達に恵まれてとてもありがたい。

一方、三食昼寝付きだった幼稚園時代と比べると、私の仕事時間は週に10時間以上減ってしまいました。これはさすがに何か対策を考えないといけないのだけど、よい案は、ハイカロリーなのでちょっと迷っている。

 

・中国に来て以来、最初に取り組んでいた仕事が、もうすぐ出版されます(長かった!)。夫の生涯においても、結局いちばん大きな仕事になるかもしれない、という内容なので、ただ出して終わりにはしたくないなと思っています。私たちはまだ駆け出し+アジアなので、どんなにいい仕事でも、放っておけば、無視されて終わる可能性もある。なので、なんらか広報活動をしたいと思っている。

 

こけぐま

皆さん、綺麗な服を着ていらっしゃる

 上京したついでにオペラシティのアートギャラリーで開催されていた展覧会、「拡大するシュルレアリスム」を覗いてきた。シュルレアリスムにくくられる絵画、写真、オブジェなどを集め、さらにはこの動向に影響を受けたと思しきポスターや雑誌記事、あるいは書籍なども展示するもの。私はシュルレアリスムにはとんとうといのだが、それでも、この運動が相当持続的で、かつ有形無形の影響を様々に残していることは十分に感じ取れるものであった。個人的には、シュルレアリスムの書籍に興味を惹かれる(特に、マックス・エルンストの『慈善週間 または七大元素』)。

 

 ところで展覧会場をふらふらと彷徨ううちに、ふと「しかし、いらっしゃる方、皆さん綺麗な服を着ていらっしゃる」という思いが浮かび、そうなるとあれやこれや周りの人の服をさりげなく観察することとなるのだが、確かに、素敵な服を着た人が多い。シュルレアリスムの展覧会に来る人というのはそれなりに美意識が高いのだろうか、などとも思う。私はといえば、気軽なジーンズ姿で、恥ずかしくなるということはないが、多少自分が場違いなような思いがしないでもなかった(もっとも、気軽な格好の人もそれなりにいたのだけれど)。

 もしかしたら、綺麗な服を着ている方々は、そうした素敵な服を着て美術館に来ることで「気持ちを上げて」いるのかもしれない。なるほど、しっかりと身支度を整えて美しい格好で美術品を眺めれば、それなりに心も高まるかもしれない。それに、美しい美術館に行くのであれば、そうした周囲に相応しい姿をしていくことは半ば訪問者の「義務である」と言えなくもない。そうした方が、なるほど、一層面白いかもしれない。

 私はと言えば、自分の格好がほとんど気にならず、あえて気取って言えば対象に対して専ら注意が向いてしまうのだが、しかし、美術館に行くならそれなりの格好をしていきましょう、という考え方も好ましいような気がしてきた。「家に帰るまでが遠足です」をもじって言うならば、「家を出てから帰るまで、すべてが展覧会なのです」と言っても良いかもしれない。

 生来の不精者なので、次に展覧会に行くときにそんな殊勝な心掛けになるかはとんとわからないのだが、それでも、そうした思いを心の片隅に留めておくのは「気持ちを上げる」ためにはいいだろう。

 

 ところで、全く関係ない話を一つ。

 この展覧会では映画『アンダルシアの犬』を全編観ることができた。全編といっても21分だから、大した時間ではない。この映画、気になりながら、長い間未見であった。理由は単純、ご存知の方はご存知のこの映画の例のシーンが、とにかく生理的に受け付けないのではないか、と、恐怖に近い感情を抱いていたのだ。中年男性なのに情けなや。とはいえ今回は、「これでがんばらないともう『アンダルシアの犬』を観ることは二度とないぞ」と自分に言い聞かせ、ひたすらスクリーンを見つめていた次第。当のシーンも終わってみれば、なんのことはない(また観たいか、とは思わないけれど)。というわけで、この展覧会に行ってよかったことは、下手をしたら一生観ないこととなったかもしれない、映画史上の有名作品を、一応は鑑賞した、ということとなります。

 オチがなく、なんとも申し訳ないのですが、『アンダルシアの犬』が気になって、もう何十年、という感じだったので、この件にケリがついたことはよかった。

 

M&M's

(6月29日記)

私の「気持ちが上がるとき」

 5月1日の記事を書いて以来、自分や他人の「気持ちが上がる」のがどんな時かと考えることが増えた。さらにはしばしば、なぜ自分が「気持ちを上げる」ために贅沢をする必要がないのか、と自問することもあった。もちろん贅沢は嫌いではない。もっとも、富裕層がするようなものではないが、多少とも華やかな場所に出たり贅沢な食事をしても、嬉しいは嬉しいがわざわざ無理をしてまで追い求めるほどのことはないと思ってしまう。日本経済的な観点からはよろしくないのかもしれないが、こうなってしまった以上仕方がない。

 自分が「安上がり」に出来上がっている自覚はある。ここでは詳細は記さないが、かなり年少の頃から、贅沢にはなじまないようにと心掛けてきた。かなり浪費家だった時期もあるが、これは書籍や楽譜やCDについてであり、「贅沢」というのとは少し違うと思う。

 

 贅沢をしなくても「気持ちが上がる」のが容易な(「安上がりな」)理由の一つは、恐らく、音楽をある程度聴いてことだと思う。これこれのシチュエーションではこの曲を聴くと気持ちが上がる、といった組み合わせのストックが、年齢のおかげかある程度あるのだ。だから、多少落ち込んでも、ちょっと良いワインを買ってきて好きな曲を聴いていると、それなりに「気持ちが上がる」。

 

 先日、初夏の陽気の本当に久しぶりに何も予定のない日曜日、洗濯と掃除を済ませ、冷やしたトマトサラダと、タマネギとピーマンをたっぷり乗せたピザトーストを白ワインと共に食べながらラヴェルのピアノ曲を聴いていた。柔らかい日差しもあってか、えも言えぬ幸福感に包まれた。要は「気持ちが上がった」わけだ。これくらいで幸福になれるというのは、ありがたいことである。

 そしてその時に、音楽があることが、私がそれほど贅沢を必要としないことの一つの理由であることに思い至ったわけなのでした。

 

M&M's

(6月22日記)

 

「天国と地獄」ごっこをしていたら

 私が転居したマンションは、決して住みにくくはないがかなりの築古である。エントランスに入ると微かな匂いと共に古さが感じられるし、設備も古びていることは隠せない。外階段に出るドアなど微妙な錆びつきがあり、開閉に苦労する(とりあえず、管理会社には改善をお願いした)。

 ところで部屋の窓からは、数百メートル離れたタワーマンションがよく見える。築浅で清潔感漂う、いかにもといったマンションだ。心なしか、灯る照明も高級感が漂っているように見える。築古のマンションの低層(マンション自体は十階建てだが、私が住んでいるのは低層階)からタワーマンションを見上げていると、なんだか思い出される感覚がある。

 黒澤明の「天国と地獄」である。

 記憶に頼って書くことととなるが、この映画、冒頭か冒頭近くに(あるいは物語の最中も?)で、貧しい誘拐犯が三船敏郎演じる権藤の、高台にある豪邸を見上げるシーンがある。確か、誘拐犯を映し、その後に豪邸を映すことで、その映像が犯人の眼差しに映る光景であることを示唆していたようにも思う。当然ながらそうしたシーンは、映像の暗い感じとあいまって犯人のルサンチマンを見事に表現するものとなっていた。そう、私の、タワーマンションを低層階から見上げるという視線は、「天国と地獄」の犯人の眼差しを想起させるのだ。

 もちろん、私自身、裕福ではないにせよ「貧しい」というほどではないし、高層のタワーマンションに住む人にルサンチマンを覚えるわけでもない。ただ、築古の低層階から築浅のタワーマンションを見上げるというのは、「天国と地獄」を思い出させるな、と面白がっていただけである。だから私は、この朝晩の営みを、「天国と地獄」ごっこ、と命名したのだった。

 

 この感覚を言語化してからしばらくしてのこと、たまたま帰宅時に同僚のSさんと一緒になった。この同僚の方、私の新居の近くに住んでいらっしゃることは漠然と知っていたので、自然と「いや、この近くに引っ越してきたのですよ」などとよもやま話をした。共通する仕事の案件もあったので、主にそちらについて話しながら歩き続け、ある場所で「私はここに住んでいるので」と話し別れることとなり、自然な成り行きで「Sさんはどちらに住んでいらっしゃるのですか?」とお聞きした次第。

 もう皆さんおわかりですね。Sさん、「いや、あそこのタワマンなんです」と、私が朝な夕な「ルサンチマン」と共に(?)眺めているマンションを指さすのである。

 これにはもう笑ってしまい、「ああ、あそこなんですね。僕、毎日お住まいを眺めながら「天国と地獄」のシーンを思い出しているんですよ」とお伝えした。Sさん、苦笑しながら、「いや、それほどいいものではないですよ」などとおっしゃっていたが、そんなことはないでしょう。

 別に私の心理に何か大きな変化が起きたわけではないが、抽象的な、対象の像を具体的には結ばぬ「「天国と地獄」ごっこ」という「遊び」に、具体的な対象が突如として現われたことが、なんとも言えず面白かったのである。うまく言えないが、ふわふわしたものが突如として所を得たような感じ、と言えばよいだろうが。

 もちろん敬愛するSさんに対してルサンチマンを向けるようなことはいたしません。この点、念のため書き添えておきます。

 

M&M's

(6月18日記)

「古都の景観を荒らすな!」

 「古都の景観を荒らすな!」

 私が娘に言われた(正確に言えばLINE上で言われた)言葉である。別にゴミのポイ捨てをしたわけでもなければ、酔って醜態を曝したわけでもない。

 以下はその顛末。

 

 先だって京都で数日過すことがあった。宿は四条河原町の程近く。

 一人暮らしとなり多少とも健康に気を遣おうと思っていた私は、今回は固い席がないのをいいことにランニングシューズで上洛、毎朝走ったのである。コースは主として鴨川沿い。四条から下鴨神社を往復するとほど良い運動になる。朝食も美味しい。そもそも6時すぎくらいに京都を走っていると、人生を楽しめているような気持ちがしてくる。いいことだらけだ。

 スマートフォンを片手に走り、下鴨神社や鴨川沿いの写真をあれこれ撮るうちに、ふと娘に送ろうと思い立った。丁度、部活の朝練のために朝早く出ている娘が電車に揺られている頃合いである。娘も驚き、そして下鴨神社などには多少とも心惹かれるだろう。

 食いつきはよかった。

 「すごいじゃない。私も行きたい」

 「今度連れてって」

 大体こんな感じだ。しかし段々風向きが怪しくなってくる。

 「なんかお父さんのくせにいい暮し、してない?」

 文法的にも内容的にも意味不明だが、そうしたことを言いたいお年頃なのであろう。寛い気持ちで受け流し、「まあ、引っ越しもがんばったしね。何にしても、朝の京都を走っていると、なんだかとっても豊かな気分になるよ」と返した。

 すると返ってのが冒頭の言葉。

 

 「古都の景観を荒らすな!」

 

 皆さん、娘によれば、私が鴨川沿いを走ると景観を汚すことになるようです。中年から初老にかけての年齢にあって、確かに見目麗しくはない。しかし、走るだけでここまで言われてしまうものなのでしょうか? 女子高校生の言葉というのは、げに残酷なものである。

 

 もっとも腹は立たなかった。むしろ、「見事な返しだな~」と妙に賞賛したい気持ちになってしまいもした。これもまた親バカの一つの形なのでありましょう。

 

M&M's

(6月2日記)