『急に具合が悪くなる』

 満を持して、というわけではないが、『急に具合が悪くなる』。この映画の感想は、やはり記録に残しておきたい。もっとも、テーマの重さのゆえにか、この映画を巡って何かを語ろうとすると、どうしても何か的を外してしまうような気がする。以下記すことは、そうした居心地の悪さに耐えながら考えたことです。

 

 この映画の鑑賞中から感じていた、そして今でも強く思う感想は、「いや、美しすぎない?」というものだ。登場人物がいずれも、多少の欠損は抱えながらも基本的に善意に満ちている。深刻なトラブルも、何かしらの軋轢がありながらもどうにか解決されていく(あるいは解決の道筋が示される)。映像も、美しすぎると言って良いだろう。映画監督の友人がいるが、彼もSNS上でそれに類したことを言っていた。

 もっとも、「美しすぎる」ことが、こうした話題を扱うに際して一つの有効な手法であることは否めない。『悲劇の誕生』でニーチェが、繊細な古代ギリシャ人は自身が感じる「生存の苦悩」に耐えるために、これを美化せねばならず、その結果として「ギリシャ悲劇」が生まれた、といった議論を展開しているが、少なくとも構造上は、この映画にも似た図式が見られる。苦痛に満ちた状況に耐えつつそれに直面するためには、「美しすぎる」ことが確かに必要なのかもしれない。

 だからこの映画は、まずもって「生存の苦痛」に耐えることを教える映画と言えるかもしれない。このことは、死が遠くはないことを告げられた主人公にも、その他の登場人物たちにも当てはまる。皆、何かしらの「生存の苦痛」を覚えながら、それぞれの仕方でこの「苦痛」に耐えている。

 

 この映画は同時に、「会話」の映画でもある。もちろん多くの映画で、登場人物の会話が重要な役を果たすが、この映画においては、登場人物が実に実によくしゃべる。そして内容は、しばしば、日常の会話ではあり得ないほど抽象的だ。「思想劇」とすら言いたくなる。「思想劇」といった言葉は存在しないので別の言葉を用いれば、プラトンの残した諸々の「対話篇」をふと思い起こさせもする。

 病による遠くはない死を宣告された女性と彼女に寄り添う女性、という構図が、諸々の会話を自然なものとしている。そして、その二人の会話を様々な角度から切り取ることで、この映画に独特のリズムが生まれてくる(合間にその他の様々な会話が挟まれる)。

 舞台と観客で会話を交わす二人を「切り返し」ショットで映し(この箇所、言葉の使い方が間違っていたらお許しを)、さらに街を歩きながら対話する二人をカメラが追い、そして病院での二人の対話のクライマックスは、小津を思わせるような正面からのショットで映される。

 この正面からのショットに対応するように見えるのが、京都の小山の上で交わされる会話。記憶が曖昧だけれど、確か二人を背後から映しているのではないかしら。このシーン、カップラーメンが重要な小道具となっている。二人はカップラーメンにお湯を注ぎ、「固めが好きだから2分30秒で」といってアラームをセットする。実際に時計を見ていないので断言はできないが、恐らくは映画の中でアラームが鳴るまで、きっかり2分30秒が経過しているのだろう。

 この時二人の会話の濃密なこと! 私たちは2分30秒でこれほどのことを語り合うことができることをこのシーンは、衝撃と共に教えてくれる。普段、どうでもいいことを話すことに多大な時間を用いている私たちを恥じ入らせるシーンだ。

 この映画のクライマックスがどこか、人によって捉え方は異なるだろうが、私はこのシーンが、実はこの映画のクライマックスなのではないかとも思った。

 

 会話が重要であるというこの映画の特徴は、原作が往復書簡であることに由来するのだろう。この往復書簡、出版直後に読んでいたのだが、この作品と映画との間の直接的な繋がりはあからさまには提示されていない。とは言え、人と人との緊密な交流において言葉が果たす役割をパフォーマティヴに提示している、という点で、両者は共通している。

 

 感想はここまでです。落ち着きが悪いのですが、私的な記録ということでお許しを。いずれにしても、まだ鑑賞していない方は、機会があったらぜひご覧になってください。三時間強という上映時間はそれなりに長いですが、どなたでも、何かしら感じるところはある作品と思います。

 

M&M's

 

子どもの頃に観た反戦映画のこと

 軍事に関する考え方は様々であろうし、非専門家には立ち入りがたい領域があることは理解しているつもりだ。そもそも人間の本性に、他者を蔑ろにする傾向と切り離しがたい闘争心が組み込まれているとも思っているので、争いに対する備えが一定程度必要というのもわかっている(それでも、ガンディーの非暴力主義には惹かれるところもあるが、それは今は措く―というか、論じる力もないけれど)。
 それでも、ある程度教育を受けた人間の感情の根底には、戦争への嫌悪があってほしいとは心の底から願っている。この嫌悪が増えるだけでも、世界は少しはましな方向に行くのではないかと、根拠なく考えている。

 そうした感情の育成に、映画は大きな役割を果たすのではないか。戦争を美化せず、そこで生じる様々な出来事(あるいは「銃後」の生活)を淡々と描く映画は、戦争というものに肯定的な人の心にも、何かしら訴えるのではないか。少なくともそうあってほしい。
 そして、そうした映画に子どものうちに触れると、戦争なりを憎む心性はより強く育まれるのではないかとも思う。
 私が子どものころは、夏になると、公民館などで反戦映画の無料上映がよくあった。小学校の三年生か四年生の頃にいくつかの映画を観たが、そのシーンは、なぜか強く心にはっきりと残っている。具体的には『二十四の瞳』や『禁じられた遊び』。どちらも具体的な戦闘シーンはほとんど描くことがないけれど(後者では、冒頭近くで、南仏に逃げる群衆への機銃掃射があったと思うが)、戦争が人の生活に様々な深い傷跡を残すものと、幼いながらに思い知った。
 あと、心に残る映画としては『橋』がある。舞台はドイツ。第二次世界大戦の末期も末期、人員不足から動員された少年たちが、実際の戦闘の中で死んでいくさまを描く作品。〇十年前のことともなるし、今wikipediaで粗筋を読んでもほとんど記憶にないことだらけなのだが、少年たちが戦争に無邪気に憧れていたイメージと、ラストで生き残った一人が友人の遺体を引きずりながら憔悴しきって歩いていくシーンは、強烈に私の心に刻み込まれた。
 この映画を観て以来、戦争に対しては本能的な嫌悪を抱くようになった。長じて、単に「戦争反対」と言っていればよい、というものではないとは思うようになったけれど(もちろんそういう宣言にも意味はある)、それでも、戦争を推進して『橋』で描かれたような少年たちを戦場に招き寄せる大人たちの少なからぬ人が、実際には戦闘には参加しない、という事実も苦々しいと思うようになった。

 しかし、最近はどうなのだろうか? 8月に公民館や市民センターなどで、子ども向けの反戦映画特集などしているのかしら? 今そうした催しを行うと、「政治的偏向」などと言われてしまうのだろうか? 改めて、軍事的な事柄については様々な考えがあってよいとは思うが、そんなふうにまではなってほしくないと思う。

 『橋』に話を戻せば、結局あれから私はこの作品を観ていない。上に挙げた『二十四の瞳』や『禁じられた遊び』は娘と一緒に観たのだけれど。ちなみにこの両作品を再見しての感想は、幼いころと全く変わっていなかった(少々面はゆいが、この年齢になってもこうした作品を観て心動かされる自分のことは嫌いではない)。『橋』は幸いなことにDVDなどでも簡単に鑑賞できる。ということで、近々観てみたいものである(また宿題が増えてしまった)。

 

M&M's

 

コロナの頃に観た映画

 先日フォルダの奥底から、2013年から2020年まで鑑賞した映画を並べたExcelファイルが出てきた。ちなみに2020年の3月で止まってしまっている。なんでこうした大切な記録を続けていないのか、自分に対して情けない思いがするのだが、ないものはないで仕方がない。ただ、書いているうちに気づいたのだが、この年は確か4月過ぎから猛烈に忙しくなり、映画を観る時間もなくなってしまって、それで記録もしなくなってしまったのではなかったかしら。

 ともあれこうした記録を見ていると、来し方を色々と振り返ることができて面白いのだが、わけても、それこそコロナの前後に観ている映画が興味深い。

 リストにあるのは、『天使にラブ・ソングを1』、『天使にラブ・ソングを2』、『テルマエ・ロマエ I』、『テルマエ・ロマエ II』、『ホーム・アローン』、『プチ・二コラ』、『クリスマス・キャロル』、『素晴らしき哉、人生!』、『一日だけの淑女』、『みんなのいえ』、『素敵な金縛り』といったところである。

 一見雑多に見えるけれど、実は基準は明確で、娘と一緒に楽しめる、ということである。ハリウッド系の気楽に観れるものから始まり、子どもでも観ておいてほしい古典的な名作を入れ、喜劇の味わいを覚えてほしいという思いから三谷幸喜の作品を観る、という流れになっている。記憶があいまいだが、意識して色々と、レンタルDVDを借りてきたような気がする(私の記憶が正しければ、自粛の嵐とはいえ、レンタルDVDは問題なく借りることができた)。

 恐らく娘はそれなりに楽しんでくれたと思う。このリストの中で覚えている映画があるか、今度聞いてみたくもある。

 普段は、鑑賞した映画のリストが世相を映すことはそれほどないが、コロナの頃に観た映画のリストは、その頃の生活の一側面をうっすらと映し出しているようです。

 

M&M's

(10月14日記)

今のところの今年の二位(?)

 安易ではあるけれど、続けて映画の話を。

 今年の映画体験で嬉しかったのは、久しぶりにファティ・アキンの映画を封切と同時に観ることができたこと。

 映画は『白パンと独裁者』。舞台は第二次世界大戦末期のドイツ北部に位置するアムルム島。ドイツ本土から疎開してきた少年ナニングの経験が淡々と語られていく。母親が熱狂的なナチス信奉者で、そのゆえに引き起こされる様々な波紋が物語を動かしていくが(特に、最後のエピソードはやるせない)、劇的な展開があるわけではない(登場人物の一人であるナチス軍人の終戦時の自殺を「劇的」とするかどうかは、観る人によって違うだろうけれど)。

 広い意味では、比較的よくある、戦時の生活を子どもの視点から描く作品。だから、戦争の是非を直接論じるものではない。とはいえ、映像の静けさと美しさのゆえに、戦争に熱狂することの愚かさが浮き彫りにされていく気がする。

 なお、この映画でどこが一番印象的だったかと思い返すと、自転車で買い物に出かけたナニングが、潮の干満の関係で溺れそうになるところ。大きな途方もない何かに翻弄される私たちの姿を隠喩的に表現していたのだろうか。

 

 少しこの映画を離れてファティ・アキンについても記しておきたい。

 彼の作品を初めて観たのは、ほぼ間違いなく『ソウル・キッチン』。映像にとても力のある人だな、と思って好きになり、『愛より強く』や『そして、私たちは愛に帰る』といった映画を観てさらに彼の作品を好きになったのだった。もう15年近く前のことだから記憶も曖昧だが、映像の力強さや人間の屈折を備えた描き方に心を大きく動かされた気がする。移民の人の苦難への理解が多少は深まった気がした、ということも、おこがましくはあるが付け加えておく。

 その後、彼の映画は必ず観よう、と思っていたのだが、なぜか『女は二度決断する』しか観ていない。もちろんこの作品は素晴らしく、それこそ映像に素晴らしい力があるのだが、しかし他の作品を観ていないようでは、ファティ・アキンのファンとは言えないだろう。ということで、この一年くらいの間に、未見の(かつその気になればどうにかなる)ファティ・アキンの映画は一通り観ておきたいと考えています(なんだかこのブログを記すたびに、観るべき映画のリストが長くなっていく・・・)。

 

 だんだん支離滅裂になってきたのでもう終わるけれど最後に一言。

 『女は二度決断する』では、ダイアン・クルーガーがひたすらひたすら素晴らしいのだけれど(第70回カンヌ映画祭で主演女優賞)、『白パンと独裁者』でも、端役ではありますが相当の存在感を見せています。彼女が仁王立ちになるシーンを見るだけでも胸がすく。

 改めて、『白パンと独裁者』、おすすめです。

 

M&M's

(10月8日記)

今のところの今年のベスト・ワン

 前回映画を話題にしたので、今回も映画の話をば。

 今年は上半期がすさまじく慌ただしかったこともあり、映画館に行った回数は10回を少し越えるくらいでしかない。ケーブルテレビに入ったこともあり、トータルでは30本くらいは観ていると思うけれど、本当ならその程度の人間が「今年のベスト」などとは語らない方がよいとは思うのだが、まあ、あくまで「私にとっての」ベスト、ということで。

 今年もこれでほぼ四分の三をすぎたわけだが、今のところのベストは、実は『山の焚火』ではない。知る人も多いだろうけれど、『シンプル・アクシデント/偶然』である。

 昨年2025年のカンヌ映画祭でパルムドールを獲っているが、シネフィルならぬ私が観ても圧巻の映画。梗概は検索をかければすぐにわかるから細々とは記さないけれど、ともかく、一つの偶然事が玉突きのように次から次へと事件を誘発していく様を描く際の説得力と緊張感にはため息が出る。

 あと、この作品、演劇的な作りを強く意識していると思うのだ。仲間割れのシーンは(記憶に頼って書くのだけれど)確か固定カメラでのシーンが長く、まるで舞台での演劇を観ているような心地になる。ラストの直前のクライマックス(ネタバレになるから詳細は記さない)の長回しも、基本的にはカメラを固定していたのではないかしら? こうした演劇的なシークエンスをメリハリを利かせつつ積み重ねていく手法は、シンプルではあるけれど、観客の(知的)好奇心を高いテンションで維持する役目を果たしていると思う。

 加えて、これは多くの人が指摘していることだけれど、非常に悲劇的なテーマを扱っていながら、要所要所でブラックな笑いが忍ばされていて、きわめて芸術的であると同時に娯楽性をもしっかりと兼ね備えた作品になっていると思う。

 と同時に、イランの政治体制の問題を描くこの作品を観ていると、抑圧的な体制でこそなぜか優れた表現が生まれてしまう、という、パラドキシカルで悲劇的な(世にしばしば見られる)構造にも思いをいたさずにはいられない。

 いずれにしても、まだ観ていないという方はぜひご覧になってください。さすがに映画館で観るのは難しいかもしれないけれど、12月2日にDVDとBlue-rayが発売される予定。最近は出たばかりのDVDなどはほとんど買わないのですが、この作品は買うかもしれません。

 

M&M's

(9月30日記)

『山の焚火』を観て

 ほとんど自分のための記録でしかありません。ただ、この映画を観た、ということは、自分のために記録として残したく、記しておきます。

 

 フレディ・M・ムーラーの名前は以前から漠然と知っていたし『山の焚火』という映画の存在もなぜか知っていた。もっともこの映画が日本で初めて上映された1986年には、自分で意識して映画を観に行くようなことはなかったから、その後、大学生の頃にでも映画評論の中ででもその存在を学んだのかもしれない。神話的な映画に相応しく、と言うと気どりがすぎるのは承知だが、いつ学び知ったということもなく、この映画の存在は頭の片隅にあった(もっとも今検索をかけてみると、2020年2月に再上映されていたそうだが、この時はコロナの騒ぎで、私自身映画のことは考えられなかったのだろう)。

 そして先日、スクリーンで実際の映像を観る機会があった。良い意味で、予想通り(いや、もちろん予想以上に)美しい映画であった。概要は、検索をかければすぐにわかるから記さない。ただ、映画が映画であるために、余計なものをすべて排していけば、究極的にはこのような映像になるのだろうか、と観終わって思った。

 このように排除されていくものの一つに、通常の意味での「ストーリー性」がある。

 もちろん映画においてストーリーが大切なことは否定しないし、私もその物語性に心惹かれることはあるけれど、『山の焚火』のようなある種の映画は、物語性を極小化することで映像の美しさと緊張感を極限まで高め、そこから翻って、通常のストーリーでは語ることのできない人間の在り方を描き出す。この時、映画は限りなく神話に近づき(『山の焚火』の評には、しばしば「神話」という言葉が現われる)、具体的な場所や時間を超越していく。すると、そこで語られる物語がいかに残酷なものであろうと、なぜか懐かしいような気持ちもしてくるのだ。

 もう一つ思ったこと。映画に限らず表現一般の手法として、空間的に他所から隔絶した環境を設定することは、強烈な効果を生みうる。山の中での親密な四人家族での暮しは、その親密さの故に悲劇にも転換しうる。その転換がやるせないような説得力と共に語られることに、何とも言えぬ感慨を覚えたのだ。

 

 なんだか堅苦しい文章で申し訳ないけれど、『山の焚火』を観たことは、私にとってはそれなりに衝撃的な映画体験だったのです。生硬な文を綴ること、お許しください。

 

 あと、同時上映で観た『最後通告』、それなりに面白い部分もあったけれど、誰でもがわかるように話を回収しきれていない。とはいえ、そうしたカオスぶりも含めてであれば楽しむことはできるかと思います。ある種の浮遊感については、ムーラーと関係の深いダニエル・シュミットの『デジャ・ヴュ』の末尾を少しだけ思い出した。こうした「現実」を相対化して浮遊感を出す感じ(?)は、このころのスイス映画の特質なのかしら、どうなのかしら?

 

 追記を二つほど。

 『山の焚火』は『我ら山人たち』ならびに『緑の山』と共に、「マウンテン・トリロジー」と呼ばれる三部作を成している。後の二つ、今回観ることは叶わなかったが、必ずや近日中に(DVDでですが)観ることを自分への宿題としておく。

 もう一つ。上映権の問題で『山の焚火』(あるいは「マウンテン・トリロジー」の全作品?)は、一応今回が日本最終上映ということになっている。10月19日~26日に池袋の新文芸坐でも上映とのこと。気になるかたはぜひ行ってきてください。

 

M&M's

(9月23日記)

ささみのはなし

 ここ一月ほど我が家に常備している一品に、ささみがある。

 筋を取ったささみを、ネギ、ショウガ、塩、日本酒と共に沸騰させて火を止めたお湯に入れ、一時間ほど放置するだけである。あとは粗熱が取れたら冷蔵庫に入れておく。とにかく徹底して手間がかからずありがたい。

 朝は、キムチと共にいただく。昼であれば、レトルトカレーか塩ラーメンと一緒に食べる。夜であれば、よい日本酒があれば柚子胡椒と共につまみにする。いずれもとても美味しいし、この一品が加わるだけで、食事が豪華になった気がする(大げさ?)。

 この作り方だと、ゆで汁もとても美味しい。細かく刻んだ野菜を大量に入れて軽く沸騰させれば、立派な野菜スープの出来上がりである。ちょっと処置に困る野菜もすぐに消費できるし、体にもよく、一石二鳥、一石三鳥といった思いがする。精神衛生上も大変よい。

 ところでとある朝、こちらの新たな利用法を発見することとなった。

 前夜に飲みすぎてしまった私は、「こりゃ、バナナとかでも食べるのは辛いかも、とはいえ何かおなかに入れた方がよかろう」などと独り言ちていたのだが、思い出して、冷えたささみのゆで汁をそのままお椀に移し、いただいたのである。ひんやりとした優しい味が喉をスーッと通って、なんの負担もなく胃に落ちていく。「五臓六腑に染み渡る」という表現が久しぶりに心に浮かんだ。

 

 そんなわけで、鳥のささみはゆで汁と共に大活躍しているわけです。そうした一品を使いまわしていると、大げさではあるのですが、「世界」とうまく付き合えているようで、ちょっと嬉しい。

 

M&M's

(9月15日記)