土曜日に更新できないので、金曜に書き込んでいます。ご容赦ください。
本当の僕
インターネット上の知り合いが、肉体込みの僕に初めて会うと、たいてい次のような感想を述べる。
思ったより弱そうだ。
思ったより優しい感じ。
思ったよりよく笑う。
ということはだ。インターネット上の僕の印象は、マッチョで優しくなくてしかめっ面なんだろう。まあ、自覚はある。
だけど本当の僕は優しいんだ、とはいわない。どちらかといえば、優しくない僕のほうが本当なんじゃないか。肉体込みのかかわりは、限られた時間・空間での人間関係であるのがふつうだ。そうすると、利害関係が発生する。
なにもお金がどうこうっていうんじゃない。たとえば「この時間を喧嘩することなく過ごしたい」だとか。インターネット上でももちろんそれはある。だけど、最終的には縁切り・おさらばが可能なしくみになっているから、かなり遠慮はしなくなる。
そのために、悪意ある発言もネット上では多い。僕も、あちこちをかき回す困った人の一人なのかもしれない。
いや、ひとつ違うところがある。必ずしもいいこととは限らないかもしれない違いだが、それは、いわゆる「荒らし」の場合だと親しくない相手ほど傷つけるのに躊躇が無い。一方、僕は親しい相手ほど遠慮なく傷つける。
肉体込みの世界に、親しい人がいないわけじゃない。たとえば、いまは一人暮らしで縁遠くなってはいるが、家族。たとえば、同僚。だが、彼らは利害関係を持つ相手だ。思えば、高校を卒業するまで、実家でずっとニコニコしていた。学生時代は、大学でニコニコしていた。いまは会社でニコニコしている。
その「ニコニコ」は仕方ないことなんじゃないかと思っている。家族や学生や会社は、「1カ月リタイヤします」というわけにはなかなかいかない。みんな過ごしやすくしていなければならないのだ。僕にはいないけど、恋人だって同じだと思う。
インターネットだって、そういう面はあるだろう。むやみやたらにナイフを振り回すような人間はごめんこうむりたい。だが、真剣な話題のときに、インターネットでニコニコしてしまったら、僕はもうおしまいなんじゃないか。そんな気がする。おしまいといってもどうなるわけでもないが、人間に対する敬意というものを完全に失う気がする。
じゃあ、インターネットを利用し始めた学生時代より前はどうだったのか。人間に対する敬意はまるでなかったのか。なかったのである。
人を人とも思わなかった、というと少し違う。自分を人間だと考えていなかった。死をおそれていなかった。救済として望んでいたわけでもなかった。ある種の行動をとれば現れてくる結果として、死を受け入れていた。そこに死があって行ってみたくなったら行こう。公園のようなものだった。
世の中のさまざまな制度は、生きていく人間、生きたい人間のためにあると思った。制度のなかには言語のしくみも含まれ、人間の言語が役に立つのは人間的な真実を知りたいときだけだと考えた。そして僕は人間ではなかった。
奇矯な行動をするが妙に勉強はできる変人として、僕は中学校での自分の位置を確立した。僕にいわせれば、奇人は人間のなかの奇人だから、「ふつうの人」とか「いい人」という評価を得るのと変わりはなかった。ヘンテコな行動をしながら、僕はニコニコしていた。
高校に入っても同様の状態が続いた。「どうしてもやりたいこと」とか「守りたい人」とかがいれば人間になれたかもしれないが、そんな感じのものごとは全然なかった。ややこしい言い方になるけれど、何事でも、やりたいと思おうとすればやりたく思えるように思えた。
放課後、友達と数学の話をしたり、くだらない冗談を大声で言ったりしながら、僕はたとえば校庭側の窓に意識を向けていた。三階の教室の窓である。あの窓に向かって駆け出して、ぱっと開けてさっと飛び出す。そのまま頭から落ちれば死ぬんじゃないだろうか。
そうしたら目の前のこの男はどんな顔をするだろう。どんな風に騒ぐのだろう。そういうことも思いつきはしたが、その手の思いつきは出てくるたびにさっさと放り捨てた。大事なのは、他人のことではなかった。この年齢、この瞬間での死とは、僕にとってなんだろう。絶好のタイミングだろうか。美しいかどうかという疑問の持ち方は、美という人間的な基準をあてはめているから適切でなかった。ただ、「いまがそのときだろうか?」と考えた。僕のやり方はたいてい厳密だった。
考えながら、僕はひょっとこのような顔で冗談を飛ばし、真剣な表情で数学や比喩表現について語った。いま僕は、それら全てを「ニコニコ」と呼びたい。
いま僕が書く真剣な文章には、前置きや遊びがない。内容を丁寧に説明するという点については親切さを発揮することもあるが、読者が内容へと入りやすくするための、内容には関わらない謙遜や冗談がない。だから、読む側としては緊張を強いられるだろう。休む間がないので疲れるだろう。
かつて人間の世界は、僕にとって、いわば前置きにすぎなかった。人間の言葉が通用する世界は前置きで、僕の世界だけが本番だった。人間の言葉でどれだけ高尚な事柄を語ろうと、そのときどれだけ真面目な顔をしていようと、それは「ニコニコ」でしかなかった。
そののち幾度かの精神的転換を経て、僕はかつての「魔力」を失った。だが、「やりたいと思おうとすればやりたく思えるように思える」のような、いくつかの条件はいまでも残っている。いつか再びあの明晰な狂気が僕に宿るのか。たとえそうだとしても、いま人間の言葉で真剣に語ることだけが、その狂気の存在をあらわす可能性を持つ。
かつて人間世界全体を前置きとみなした僕は、いま、人間世界を前置きとそうでないものに分けている。この区別だけは譲るわけにはいかないのだ。前置きが本番を侵し始めれば、すぐさま世界は前置きに、そして僕は魔に変わる。
変わって何が悪いのかといえば、さして悪くもないのだ。ニコニコしながらも、僕は充実した魔の生を送るだろう。
ただ、一度は見捨てた人間の言葉だけでやれるだけはやってやろう、そんな気分にしたがって僕は真剣でいるのだ。どうでもいいことに対しては「どうでもいい」と、大事なことに対しては「大事だ」と言いつづける。ここでだけはそうさせてもらう。
虎