2月、3月と友人たちとある仕事に集中して取り組み、そのまま新年度に突入してしまったためか、ちょっと疲れている。心に潤いがない感じ。新しい書物や音楽に触れる機会が減ると、やはりこんな感じになるのかしら。この間は、ラジオからブラームスのヴィオラソナタ第2番の第2楽章が流れてきて、不覚にも泣きそうになった。泣きそうといっても悲しいわけではなく、むしろ心がほぐされる感じではあるけれど。
こういう効果をもたらす曲としては、もちろんブラームスも良いが、いくつかのシャンソンも良い。そうした曲の筆頭には、やはり「さくらんぼの実る頃」が来てしまう。凡庸なのはわかっていますが、仕方ありません。
この曲、私たちの世代はもともと何となく知っていたと思うが、ジブリ映画『紅の豚』が印象的な形で用い、一層心に残る曲となったのではないか。私自身はコラ・ヴォケール(Cora Vaucaire)の歌うものが好きなのだが、おときさんに敬意を払い、彼女の歌う姿の見れるリンクを貼っておきましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=qWj-YN-cVFI
ついでに言うと、やはりこの映画で出てきた「時には昔の話を」を聞くと、私はちょっと涙腺がゆるむ―俗情と言われようと。
https://www.youtube.com/watch?v=cAHRQYo9ScY
「さくらんぼの実る頃」に話を戻れば、ご存知の方もいると思うが、この曲はパリ=コミューンとの関連が深い。もとは、パリ=コミューン以前に作曲されている曲である。しかし、パリ=コミューンに参加したこの曲の作詞家ジャン・バティスト・クレモンが、コミューンの最後の激戦の時にコミューンの兵士たちと共にすごし、恐らくは犠牲となったルイーズという女性に、後年この曲を捧げ、コミューンの記憶と深く結びついた曲となった。1880年代に出版されたこの詩を収めた書籍で、件の詩に、クレモンは次のような説明書きを加えている(少し自由に訳していること、一部訳に自信がない、というか意味がとり切れていない箇所があることをお断りしておきます)。
「この曲は世間に知られているので、私はこれを、思い出とかの人への思いの意味で、ある勇敢な若い女性に捧げたい。彼女もまた、偉大な献身と誇り高き勇気が必要とされたある時代に、街を駆け抜けたのだった。
次の事実は、決して忘れられない事実である。
1871年5月28日、パリ全体が勝ち誇る反動的な人々の手に落ちていたが、何人かのひとびとはフォンテーヌ・オ・ロワ通りでまだ戦闘を続けていた。[…中略…]
11時から正午の間、籠を手に携えた年のころ二十歳か二十二といった若い女性が、私たちのところへとやってきた。
私たちは、どこから来たのか、何をしていたのか、どうしてこんな危険に身を曝すのか、と尋ねた。
彼女はごくごく率直に、救護の役を務めており、サン=モール通りのバリケードが占拠されてしまったので、私たちの役に立つことができないかと思って来たのだ、と答えた。
1848年革命の闘志であり、71年を生き残ることはなかったある老人は、彼女の首に手をまわして抱きしめた。
実際、何たる素晴らしい献身であったことか!
当然私たちは彼女を守ることはできないので一緒にいないようにと言ったのだが、彼女は、私たちと一緒にいると言い張った。
しかも、5分も経つと彼女は私たちの役に立ってくれたのだ。
仲間のうち二人が撃たれて倒れた。一人は肩に、一人は額の真ん中に銃撃を受けたのだ。
他にも次々と犠牲者が出た。
私たちが撤退を決めた時、もしも時間がもう少しあったのなら、この勇気ある女性に、その場を離れてもらえるように懇願せねばならなかった。
私たちが知っているのは、彼女の名がルイーズだったこと、彼女が労働者だったことだけだ。
もちろん、彼女は反抗した人々、生きるのに疲れた人々と共にいた。
彼女はどうなっただろうか?
彼女は、他の多くの人々と共に、ヴェルサイユの政府軍に銃殺されたのだろうか?
この知られていない英雄にこそ、私は、この書が収めているうちで最も人に知られたこの歌を捧げるべきではないだろうか?」(Chansons (5e édition) / de J.-B. Clément, Paris, 1887, pp. 244-245.)
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