あの人が何者か、私たちは知らない

 もう少し暖めたいテーマなのだが、他の素材を探す暇もないので、とりあえず覚書程度に記しておく。

 第二次世界大戦中のフランスにおける対独レジスタンスに関わる本をいくつか読んでいる。きっかけはフランスのレジスタンス運動を一つの統一にもたらした功績で知られるジャン・ムーラン(1899~1943)のことをもう少し知りたかった、というもの。しかし、彼の件は他日を期したい。

 ここでは、そうして読んだ本のうちの一冊、ヴェルコール『沈黙のたたかい』(森乾訳、藤森書店、1978年)に触れておきたい。

 レジスタンス文学の傑作『海の沈黙』を執筆し、現在まで続く出版社「深夜叢書 Les Éditons de Minuits」を作ったヴェルコールだが、終戦後二十年以上を経て、自身の第二次世界大戦の時代の経験を回想している(Le Bataille du silence, Presse de la Cité, 1967)。1930年代から終戦までの、フランスの小説家、作家を巡る貴重な証言と言えるが、なんといっても、同時代の人々に関する時に辛辣な批評が印象的である。

 フランスのレジスタンスについては、1944年8月のパリ解放前後から、実際には活動をしていたかはなはだ怪しい人物たちが、「レジスタンス的活動」を始めるようになる。以下、ヴェルコール自身の言葉を引く。

 

「パットン将軍麾下のアメリカ軍がロアール川ぞいに進軍し、もしかするとパリをめざしていると思われはじめたとき、とつぜん、新しい”秘密出版”の新聞が雨後のタケノコのように輩出しはじめた。だれもが、自分こそ内心レジスタンスであったと思い、自分自身の新しい抗独のための雑誌を出す決心をした。」(同書邦訳、p. 290)

 

 仏語原文を確認してはいないのだが、「自分自身の新しい抗独」の箇所は、"leurs propres nouvelles résistances contre l'Allemagne"だろうか。なんとも皮肉な響きが漂う。こうした人々は「九月のレジスタンス」という、揶揄もここに極まれり、という名称で呼ばれていたそうだが、ヴェルコールのそうした人々への眼差しは当然ながら厳しい。

 彼は、「九月のレジスタンス」の存在に簡単に触れた後、むしろ、苦難に満ちたレジスタンスの時期にこそ、人間の真実と幸福があったのではないか、と言葉を継ぐ。

 

「死、窮乏、かなしみ、友人たちを思っての不安の日々でもあったが、それはまた、幸福な日々でもあった。そういうふうに考えるのは私の恥辱となるだろうか? 共通の不幸のなかにありながら、共通の決意をいだき、私たちがともに感じた熱情、心のもっとも深い部分の高揚、私たちがともに分けあった感情は、まったく純粋で私心のないものだった。そうだ。私たちは胸の奥ふかくに、ゆたかで生き生きしたものをもっていた。それが幸福でないとするなら、なんとよんだらいいのか? いや、それこそこの世界で唯一の真の幸福であることを私は発見したのだ。私たちが愛する人々の心の高貴さを感じ取ること、それこそ幸福なのだ。」(同書、pp. 291-292)

 

 苦難の時期に高貴な志を共にできること、これこそが幸福である、ということは想像できる。そして、こうした言葉は、苦難の時代を生きた人々の証言として残されるべきだと思う。

 しかし同時に私がこの本を読んでいて心打たれたのは、こうした使命のために、敢えて味方をも欺き、ドイツへの抵抗のために、対独協力者の演技をし続けた人がいたことだ。そうした人々は、自身と志を同じくする人からも憎まれ蔑まれることとなりながら、それを甘受しなければならない。例えばこうだ。

 

「私自身も、ある晩、ビヤホール・リップで友人たちと酒を飲んでいたときの、忘れられない一つの思い出がある。リップにロベール・デスノスがいて、私たちにあいさつするために、わざわざ立ちあがったのだ。ところが彼はそのころ、ドイツ、もしくは親独の出版社の仕事をしていると、うわさされていた。私はデスノスに握手しようとはせず、ことば一つかけなかった。もちろん、当時の私にはわかるはずもなかたが、じっさいは、彼はこの対独協力をかくれみのにして、秘密抵抗運動をやっていたのだ。そして、その後まもなく、彼の運動は発覚し、彼も裁判にかけられ、強制俘虜収容所送りとなり、チェコのテレツィン収容所に入れられ、そこで死んだのだ。私たちの多くが戦時中を回想して、なんらかのつぐないようもない後悔にさいなまれていることは事実だ。」(同書、p.193)

 

 ヴェルコールは、自身のかっての友人を巡るこのエピソードと悔恨の思いを語った後に、さらに、同じように、あるいはこの件以上に衝撃的な例を語る。やや長いが、そのまま引く。

 

「ある日英国放送を聴いていると、ブルターニュ地方のレジスタンスの闘士全部によびかけた演説があり、そのなかで、レジスタンスたちが何か月も軽蔑し、のろいのことばをあびせかけつづけた一人の英雄の名をあげ、その男の名誉を挽回させてやってくれと放送していた。というのは、その男は有名な土建業者で、秘密裡に英国情報部のためにはたらいていたからだという。生前、彼がドイツ軍に忠節をつくし、ドイツ軍と協力し、ドイツ軍の関心を買うために女のあっせんまでしたというのも、英国情報部の命令に従ったまでだというのだった。だれも彼に挨拶をしなくなり、彼が道を歩くとつばをはきかけるものさえいた。彼の妻までが彼をすてた。最後には、ボディーガードなしには、うっかり街を歩くこともできなくなった。そしてやっと、英国放送が彼のほんとうの活動を明かし、断頭台で斬首刑となった彼の死を知らせたのである。このような方の英雄的行為は、私などにはとうていできそうもないように思われた。」(同書同頁)

 

 ほぼすべての人にできないだろう。「ほぼ」という言葉をつけることができるのは、まさにこの人物がいたからに他ならない。このような行為をなしうる人は、非常に献身的な利他心と使命感と同時に、どこかしら、人に蔑まれることに耐えうる、そして傲慢すれすれといってよい悪魔的なものを抱えているのではないかと思う。悪い意味ではない。強靭な精神を持つ人は、しばしば、そうした精神が示しうる善悪両方の特徴を秘めているように思うからだ。

 まとまりはつかぬけれど、このような使命を果たして死んでいっていた人の内面を思う時、私は、なんとも呼びようのない何ものかに、吸い込まれていくような思いがするのである。

 

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