ある長篇漫画から思ったこと(3)

  ジェイン・オースティンからお手紙をもらうとか、ヴァージニア・ウルフに冷たく見据えられるとか、いくつかのパターンを考えたのだけれど、うまくいかない。どうもこの手の文章を書く才はないようだ。

 大体今回の文章は主旨がはっきりしない。オリジナルと研究書との間を往還するのが楽しい書物を挙げるはずだったのが、いつの間にか思いついた長編小説の無秩序な列挙に堕しているような気もする。そもそもこうしたテーマでいくなら、なぜ短編小説ではいけないのか、という疑問を立てることもできよう。その意味でも失敗している。

 

 混乱を収拾する意味でもおおもとの話をしたほうが良いだろう。

 今回の文章を書くきっかけは、萩尾望都の漫画『王妃マルゴ』(集英社・全8巻)を見つけて読んだことだった。萩尾望都の漫画それ自体が素晴らしいことは言うまでもないが、そもそも選択が素晴らしいと思ったのだ。これまでの流れから言うと、デュマの小説『王妃マルゴ』を読みやすくした点が良いということになりそうだが、そういうことではない。16世紀後半の宗教内乱に明け暮れるフランスという、私たち日本人には近づきにくいが、それでも知っておくと大いに面白い時代、これへのアクセスを著しく容易にしてくれた、という意味で、である。

 先週か先々週にも少し触れたけれど、一度読んでおくと何度も立ち戻れる長編小説があるのと同様、興味を抱くとどこまでも掘り下げることのできる、一生付き合っていける歴史上の「時代」というのがあるように思う。日本人なら、「戦国時代マニア」がいたり「明治維新マニア」がいたりする、あの感じだ。

 ヨーロッパを例にとれば、「ローマ時代マニア」とか「15世紀フィレンツェマニア」、あるいは「フランス革命マニア」みたいなものが考えらえる。

 そして私はといえば、16世紀後半の混乱のフランスというのは、人間の様々な欲望や家族の愛憎、政治、宗教が絡まりあった形で見事な絵巻物を見せる、実に面白い時代だと思っている。夫アンリ二世を騎馬試合の事故で失い、息子三人が王位につきながら次々と死んでいく、という滅多にない経験に見舞われたカトリーヌ・メディシスを中心に、様々な魅力的な人物が思いもかけない行動をし、飽きることがない。

 だから、「マニア」というほどではないが、この時代に関する様々な書物というのは折々読んできたし、あるいは将来読もうと思っている書物もいくつかピックアップしてある。ちょうど、気に入った長篇小説に関する研究書やエッセイを読み継ぐように、この時代を扱う書物をいわばコレクションしてきたわけだ。

 ただ、この時代は難しい。カトリックプロテスタントの対立というのも、そもそも私たちにはピンとこない(高校の世界史の難所の一つは、サン・バルテルミの虐殺ではないか ーあそこまでの虐殺を生む宗教対立というのはその文化圏を生きていないとなかなかわからないものだと思う)。おまけにその対立が単純に成立しているわけではなく、大貴族の勢力をそぐという政治的要因が入り込み、カトリック同士の内輪もめもあって、対立の構図はぐちゃぐちゃである。

 私自身は二十代だったころ、モンテーニュの『エセー』(おおもとと研究書の往還が楽しい書物の筆頭だろう)を読み、これは時代背景が分かった方がよいなと、私家版の年表や家系図を作ったことがあるので、この時代の流れは一応は頭に入っている(それでも十分ではないけれど)。ただ、だからこそと言うべきか、この時代の複雑さも肌身に染みており、他の方に「この時代は本当に面白い時代ですよ」と言うのが躊躇われてきた。そして、必ずしも良い導入がない。例えばフランス革命に興味を持ってもらいたければ、「とりあえず『ベルサイユのばら』を読んでみて」ということができるし、明治時代に関心を持つ人がいれば、事の当否はさておき『坂の上の雲』を勧める、という手がある(実は読んだことがない-結構批判も多いようですが)。つまり、複雑な時代についてはしばしばそれへの優れた導入となる入門書があるものだが、フランスの宗教内乱の時代にはそうしたものがあまりない、ということを残念に思っていたのだ。

 ここでようやく本題に戻るのだが、かの漫画『王妃マルゴ』を見た時に、これはそうした素晴らしい書物ではないか、この面白い時代についての見事な入門たりうるのではないか、と思ったのである。

 この期待は裏切られなかった。この大変で複雑な時代を見事な筆力で描き切っていると思う。歴史を学びたいという底意がなかろうと登場人物の魅力に惹きつけられる漫画だが、読んでいるうちに彼らが織りなす歴史を自ずと学び知ることができるのは、やはりこの作品に触れることから得られる功徳に数えてよかろう。私自身、この時代についての一定の知識は持っていたつもりだが、それでも、曖昧だった事項のいくつもが、具体的なイメージを持ってきてくれて心から感謝している。『エセー』を筆頭とするこの時代の書物、あるいはデュマの『王妃マルゴ』やらメリメの『シャルル九世年代記』などの小説を読んでいく上でも、この漫画は良き導きとなるのではないだろうか(途中の道のりは遠いが、この漫画から入って『エセー』に触れてくれる人が出てくれば、と願っている-モンテーニュはこの漫画にもちょっとだけ顔を出す)。

 というわけで、この漫画を見つけ通読した時に大体次のように考えたわけです、大混乱しているので、うるおいはないけれど、時系列の箇条書きで書きます。

 

1) いや~、面白かった。16世紀末のフランスの宗教内乱の時代に関する、日本語での最良の「入門書」になるかもね。

2) それにしても、ある時代を好きになり、その時代に関係する書物を読み漁ることは、どこか、お気に入りの観光地を作り、その地について勉強して再訪することと似ている。人はそういう時代を持っていると人生が楽しくなるものだ。

3) この関係は優れた古典の長篇小説とその関係書に似ているよね。そういう小説には、どんなものがあるかしら。あと、こうした場合に、オリジナルへの良き導入になる漫画とかもいいのがあるよね、『あさきゆめみし』とか。これってこの『王妃マルゴ』の位置づけと何か似ているかも(ここで、こうした考えをこのブログに書きたくなる)。

4) とりあえず長篇小説の件から書いてしまえ

5) あれ、何だか収拾がつかないけれど、まあいいか。

6) ああ、だめだ。まあ、とにかくあれこれ考えるきっかけをくれたかの漫画への賛辞はしっかり書かねば。

 

 こんな感じです。説明になっているかしら? レポートなら「不可」だな・・・

 

 それでもくどくどと二つほど。

 一つは、日本の漫画のクォリティの高さ(私などが語るまでもない)。『王妃マルゴ』はそもそも外国語に翻訳されていないようだけれど、仏訳したら案外売れないかしら? さらに言えば、こうした歴史上重要な時代の物語をしっかり漫画化し、翻訳して「輸出」してみたらどうだろう? 経済効果は「とても高い」とまではいかないけれど、日本のイメージをよくすることには大いに貢献するのではないでしょうか?

 もう一つ。この宗教内乱時代のフランスに関する日本語の読みやすい書物はあまりないと思うのだけれど、それでも二冊は挙げておきたい。一冊は渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫)。この激動の時代を生きる様々な人々の評伝だが、決して長いとは言えぬ文章の中で、読み手が想像できるように人物を生き生きと活写する筆は本当に素晴らしいと思う。こういう文章書く人、いなくなりましたよね。もう一冊は子供向けなのだけれど、カルボニエという人の『床屋医者パレ』(藤川正信訳、福武文庫)。このアンブロワーズ・パレは近代外科の発展に尽くした人で、血管結紮法を編み出した人物。実際に彼が軍医として従軍したのは宗教戦争より前の時代の戦争だが、それでも読んでいると、時代の雰囲気のようなものが伝わってくる。知らない人物について学ぶときは、とりあえず子供向けの本から入るのもよい。

 

 この項、これにて終わります。しかし、この三回の文章、混乱の極みでございました。最後まで読んでくださった方(もしもいれば)、申し訳ありません。今度からはもう少し構成を考える努力をします(気持ちだけになるかもしれないけれど)。まあ、自分としては楽しかったことを告白いたします。長編小説に関する自分の知識がいかに凡庸であるか自覚することになったけれど、それもまたよし。

 

M&M's

 

とりわけ忙しいわけではないのだが、どうも水曜日がなかなかに書けないと最近理解し、予約投稿をすることにした。書いているのは土曜日である。

M&M'sさんがジョイスに降れられていたので少々……。

ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は本当にわけのわからない傑作だが、その根底にあるのは「徹底的な愛国心」なのではないかと思っている、というのも、アイルランドを知らなければ理解できない用語が多すぎるのだ。彼がなにを思い、これを書いたのかはわからないが、コロナが落ち着いた暁には、現地で原語を調達しようと思っている。『ユリシーズ』もまた、ある意味ではそうかもしれない。表面的にそれほどわかりにくくはないのだが、愛国心からくる揶揄が響くかどうか、あの国を目にしたかどうかによるとは思う。『ダブリナーズ』がもっともわかりやすい気はするが、それにしても固有名詞が多い。それを無視して読み進め、空想するのも一興。現地でそれを確認するのも一興、といったところだろうか。

もちろん、西洋文学はアイルランド以外も好きだ。このご時世なので、カミュの『ペスト』を読み返したのも、そこそこ最近の話である。

 

 

mayjune

ある長篇漫画から思ったこと(2)

 先週の記事を書いて数日後、歩いていたら後ろから「ムッシュー」と呼び止める人がいる。エミール・ゾラだった。吃驚していると、「貴方はああいうテーマで文章を書き、バルザックの名前まで挙げながら、私の「ルーゴン・マッカール叢書」を挙げないのですね。見識を疑います! 私は糾弾する、J'accuse!」と厳しく言い放ち、颯爽と立ち去っていった。おおそうだ、その通りだ、しかしあなたの作品はほとんど読んでいないのですっかり頭から抜けていたのだよ。頭の中で言い訳を繰り返しながら、ぼーっと角のところを曲がると、人とぶつかって転んでしまった。痛いじゃないか、と思いながら相手を仰ぎ見ると、ヴィクトル・ユゴーが僕を冷然と見下ろしていた。「私の『レ・ミゼラブル』を思い出さないような中途半端な人間は、生半可な知識でああした文章を書かぬほうが良いのだよ」と厳かに言い放つと、悠然と立ち去っていった。おお神の如きユゴーよ、おっしゃる通りだ、返す言葉もない。我を許したまえ。

 

 けれど折角ですから続けます。オリジナルを読んだ後、研究書などを経巡ってから立ち戻ると楽しい長篇小説ですよね。

 イギリスだったらやはりディケンズが筆頭に挙がるのかしら? ただ、不遜を承知で言うのだが、ディケンズ研究というのがどんな風になされるのか、想像がつかない。バルザックを扱うのと同じように、時代背景に関する緻密な考証を重ねていくのかしら? あと、これは研究云々とは関係ないけれど『虚栄の市』はそのうち読んでみたいと思っている。多分典型的な十九世紀型小説なのであろう。

 こんな感じで済ませると、また誰か大作家に怒られるかもしれないが、気にせずにアイルランドに行こう。当然ジョイスである。ジョイスについては、どんな研究をしているのかというイメージはあって、作品と研究との有機的連関、というのが充実しているようなのだが、実は一つも読んだことがない。『ユリシーズ』くらいは無理やりでも読んだほうが良いのだろうか、『フィネガンズ・ウェイク』など老後にはとても難しくて読めなくなってしまうのだろうか、などとあれこれ考えてしまう。読んでいない長篇小説のうちでは最も気になる存在ではある。まあ、そこまで言うなら、とりあえず図書館で借りてくるなりすれば良いのだろう(こういう文章を書いている効用は、書いているうちに気分が乗ってくることですねー読み手の方には無関係で申し訳ないのですが)。

 はてさて、目を南の方に転じれば、当然ダンテの『神曲』とセルバンテスの『ドン・キホーテ』が浮かぶ。いずれも「神話的」と言える部分もある書物であり、他の書物や様々な史実への参照も事欠かず、このあたりはオリジナルと研究書の往還の楽しい書物としてはトップグループに入るのだろう。いずれも素晴らしい翻訳があるのだから、カルチャーセンターなどで「『神曲』を読む」なんて講座があったら、案外流行りはしないのかしらん、どうかしらん? 『神曲』は、河出書房の訳本を、注釈を頼りに随分昔に読んだ。やはり「地獄篇」がいいですね。『ドン・キホーテ』は、三分の一くらいで挫折しているかな。とりあえずこちらに再チャレンジ、というのは、ありのような気がする。

 ついで東に向かい、ロシアである。ロシアの長篇小説と言えば、ドストエフスキートルストイが双璧となるのだが、実は前者の長篇小説はすべて読んでおり、そして後者は一つも読んでいない。ただ、『戦争と平和』なんかはうまくはまると案外すいすい読めるのではないか、という期待もある。しかし、時間が・・・

 あと、ちょっと気になる長篇小説としてはハシェク『兵士シュヴェイクの冒険』があるのだが、優先順位を上の方に持ってくるのはやや躊躇われる。中国ものも、心惹かれなくもないのだが優先順位を上にすることができない。『西遊記』とか『紅楼夢』とか『金瓶梅』とか、そのうちゆるゆると読み進めてみたくもあり、また『金瓶梅』などは、記述がどの程度エロティックなのか、という興味もあるのだが、その長さには気後れしてしまう。ただ、以前触れた黒田硫黄の短編集『大王』所収の「西遊記を読む」という短編で、中華料理店で『西遊記』の感想を述べあう男女というのが出てきて不思議な魅力を醸し出しており、それもあって捨てきれないところがある。

 

 さて、日本に来ればどうなるか、ということになり、いくつかの候補を考えることができるとはいえ、オリジナルと研究書の往還運動の面白さということを考えれば、やはり『源氏物語』に指を屈せざるを得ない(なお、ある知りあいの方が先週の記事の後、私にとって読んでいてよかった長篇は『源氏物語』です、とのメッセージをお寄せくださった-ありがとうございます)。もっとも、一帖か二帖、受験勉強を兼ねてだったか原文で読んだように思うが、当然すべてに目を通しているわけではない。とはいえ、この物語にある程度通暁していれば、日本文学全体に注ぐ眼差しすら変わってくるかもしれないではないか。そうすると、やはり何かしらの形では読んでおきたい。

 さて、幸いなことに『源氏物語』には優れた現代語訳がいくつもある。まずはそうした書物から入っていくのでもよいのだろう。

 

 そして私たちは、さらには『あさきゆめみし』という素晴らしい手引きを持つことをもまた忘れてはならないだろう。

 もちろん、漫画から入っていき最後はオリジナルに到達することが望ましい。とはいえ、オリジナルに到達しなくてもよいではないか。まずはそうした物語があることを知り、そして、古来から少なからぬ人がそうした物語を愛してきたことを意識しつつまずは漫画を通じて物語に触れること、これをしているだけでも、何もしないよりは遥かにマシだ(唯一避けるべきは、漫画を読んだのだから、オリジナルのことも大体わかっている、という思いこみに陥ることだろう)。漫画で作品に触れ、その後に例えば研究書などを読んで輪郭を固めていき、然る後にオリジナルにチャレンジ、などといったことがあっても良いはずだ。

 大体、私のこれまでの文章が露わにしているように、読んでいない長篇小説などいくらでもある。そうしたものに全て「オリジナルをちゃんと読む」という形で触れていこうとすれば、それはそれで参ってしまう。とりあえずの方便として、漫画なり映画なりで作品に触れていく、ということもそれはそれで、ありなのではないか?

 試みにだが、誰か『戦争と平和』など、漫画化してみてくれないだろうか? (なお、今見たら一応あるらしいのですが、一冊本で、つまりはダイジェスト版のようでして、私が考えているのは、もう少し長いものです)。

 

 もっとも、タイトルにある「長篇漫画」というのは、実は『あさきゆめみし』ではない(これはずいぶん昔に読んだ)。上でダラダラ書いたようなことを思い起す別の長篇漫画を読んだので、こうした文章を書いてみたくなったのです。もっとも長くなってきたので、その漫画自体についてはまた来週。漫画自体は史実を扱うもので、要は、かの名作『ベルサイユのばら』のようなものを思い浮かべてくださればいいわけです。

 この項、(しつこく)来週も続きます。

 

 M&M's

 

追記:禁酒宣言、途中まではよかったのだが、仕事との絡みやら何やらで、3月20にすぎからビミョーな感じになってしまった(というか守れなかった)。というわけで、とりあえず四月については、金曜と土曜は飲んでもいいけれど、それ以外は一人酒はなし、と、一応宣言してみます。あっ、今夜と明日は飲みます。はい。

 

 

ある長篇漫画から思ったこと

註)本当は、長編小説や、あと重要な歴史的事件の漫画化したものは、いいものもあるますし、結構大切ですよね、ということを書きたかったのですが、全然収まりがつかず、途中で切れていることを予めお詫びしておきます。長編小説をネタに書き始めたら、自分の文章がムダに「長篇」になってしまった・・・

 以下、本文です。

 

 長篇小説(漫画ではない)の喜びには、物語自体がもたらす喜びも去ることながら、周辺の書物がもたらす喜びがある。優れた長編小説を巡っては、読み解くツールとして、あるいは作品に新たな角度から光を当てる投光器として、新たな研究書、解説書が書き継がれていく。玉石混交とはいえ、優れたものも数多い。例えば江川卓『謎解き『罪と罰』』(新潮選書、1986年)で、かのドストエフスキーの長篇小説の面白さがわかった、という人も多かろう(私、そうです)。先週触れたチャプスキ『収容所のプルースト』も、そうした優れたものに当然ながら入る。

 この関係は、お気に入りの観光地とその場を巡る書物や映像とのそれに比することもできよう。例えば京都が好きならば、直接の訪問はもちろん楽しかろうが、京都を巡る書物や映画に触れることも喜びとなるはずだ。そうして、直接の訪問ができないとき(今、まさにそれに近いですね)に、後者によって知識を増やしておくことは将来の再訪の味わいを深めてくれるはずだ。

 ところで観光地の比喩からわかるのだが、できるならばやはり観光地を実地に訪れておくほうが望ましい。もちろん、何らかの事情でかの地を訪問できない人が書物などでその地に詳しくなり憧れるという姿には、どこか私たちの心を打つところがあるが、普通に健康であるならば、できる限りその地を訪れておくほうが良いだろう。直接の訪問の有無が、理解に違いを生み出すことは否めない。私自身、かつてフィレンツェに憧れ、直接に訪問する前にずいぶんと書物を読んだが、やはり直接訪れたときに得た印象は圧倒的であった。なんとも卑俗な体験主義に陥っていることはわかっており、申し訳なくもあるのだが、直接訪れることのできないながらもその街に知見を持つ人には一定の敬意を払いつつも、やはり直接の滞在は意義深いということに、ひとまずはしておいて良いのではないだろうか。

 

 もとに戻れば、世に残る長篇小説と周辺書籍との関係についても同様のことが言える。やはりおおもとの本を読んでおくほうが良い。二年前に『失われた時を求めて』を読み終わった時の感想の一つは、「これで周辺の研究書を心置きなく楽しめる!」というものだった。それまでもこの長編小説に関する解説書などは読んだことがあったのだが、気分がいまいち落ち着かなった。美味しい食事を十分に咀嚼せずに流し込んでいる感じ? 何かもっと適切な比喩があるように思うが、いずれにせよ微妙な居心地の悪さが残る。しかし読了後は、落ち着いた気分で解説書や研究書に触れることもできる。読んでいてピントがあっている感じがする、と言えばよいのだろうか。そして、再読の際(いつになるやら!)、きっとそうした周辺書籍の読書のおかげで物語を一層味わうことができることは間違いないだろう。

 

 少し話が飛ぶが、若いうちに長篇小説をいくつか通読しておくと良い、というのは、こうした喜びを味わうためでもあると思う。もちろんおおもとの書籍それ自身から何かを学ぶことは大切だが、実は若いうちに読んだ古典から十分に何かを学び取るというのは難しい(まあ、大人になっても難しいのですが)。何かしらの欠如が残る、というのが実相だろう。しかし一度は曲がりなりにも通読した古典について、自分の読みの不十分さを意識しつつ研究書などに触れていき、将来問題の古典に立ち戻るという経験は、世の広さを知るという意味でも、自分の変化を知るという意味でも、得難い経験となるのではないか。これは、他の類いの経験からは得難いものであるように思う。ケチなことを付け加えれば、うまく図書館を活用すれば、もとでもほとんどかからない。しかももとになる古典が外国語のものであれば、翻訳とオリジナルを買ってくれば、得られる糧はどこまでも深くなる。教養主義的と言われようが何といわれようが、ここで書いていることは正しい、あるいは「正しい」という言葉が傲慢ならば、人生を味わい深くすることに資するものだ、と、こう確信している。

 こうした、一生を通じて付き合っていける長篇小説というのにはどのようなものがあるだろうか? ちょっと整理してみたい。

 フランスであれば、バルザックの一連の作品とプルーストが双璧かしら。スタンダールを入れてみたい気もするが、小説の「長さ」という観点だけからすると、先の二人には少し届かない感じがする。面白いですけれどね。あえて言えば視点が一つの感じが弱点になるのかしら。プルーストの場合、一人称語りであるにも関わらず、複数の視点が感じられる。もとに戻れば、後、読んでいないものだが、昔の人ならば『チボー家の人々』やロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を入れたものだろう。今はあまり読まれなくなってしまっているのはなぜだろう? ともあれ、この年になって言うのもなんだが、いつか読んでみたいと思っている。本当はいずれも青春の書ですよね。あと、『チボー家の人々』については、この書を愛読する少女を描いた美しい小品が高野文子の漫画にあることを付け加えておきます(『黄色い本』 ー多分いつか古本屋に売ってしまった ー痛恨  ーと思ったら、今でも簡単に手に入るようです)。

 ドイツなら『ファウスト』がやはりトップに来るのでしょうか。一応通読はしているのですが、まさに無理やり通読した感じ。ただ、これは、色々と勉強すれば喜びが深くなりそうな予感もします。これは老後の楽しみに。これに、トーマス・マンの一連の作品があるのでしょうね。ただ、これは私の無知によるのかもしれないが、トーマス・マンの諸作品の社会文化的背景を巡る研究書などはあるのでしょうか? 『『ブッテンブローク家人びと』とその時代』みたいな本があったら読みたいのですが。『魔の山』についても同様。あの本で交わされる思想対話(読んだ時、それほどは面白いと思わなかった・・・)の元ネタを解説する本があったら読んでみたい。他に、一生付き合うタイプかは別として、あと、オーストリア文学に含まれるものですが、ムジールの『特性のない男』がありますね。

 

 ああ、しかしこんなにダラダラと書いても仕方がない。専ら自分にとっての整理のために、イギリス、アイルランドジェイムズ・ジョイス!)、イタリア、ロシアなどと続けていきたいのですが、ちょっと長くなるのと疲れてきたので、今日はここまで。

 この項目、続きます。続けなくてもいいのだけれど(苦笑)。

 

M&M's

 

追記)以下の文は、最初、上の文の一部をなしていたのだけれど、ちょっとおさまりが悪いので省きました。一応こちらに残しておきます。フランスものの長篇小説について書いている部分の前にあったものです。

 

「やはりギリシャの古典を知っていると強いだろうな、とは思う(考えてみると小説ではないがそれは措こう)。『イーリアス』なり『オデュッセイア』という作品が、昔日は上で述べた役割を果たしていたことは言うアでもない。ただ、私は一応昔両作品を通読しているが、十分に楽しめなかったことは告白しておく。やはり古典ギリシャ語ができないことは大きいか? あるいは、いくら同じ人間を巡る事柄とはいえ、あまりに時間的に距離がありすぎるからだろうか? これまで書いてきたことと矛盾するが、ギリシャの古典については、とりあえずは子供向きなどにまとめたものを読むので、ひとまずは良いかしらなどと思ってしまう。」

むしばになりました

ご無沙汰しておりますmayjuneです。

基本的に人に会わないから歯が綺麗とかどうでもいいので五年くらい歯医者行かなかったが虫歯だろうなこれ、ということで渋々行ってきた。べつに歯医者は苦手ではない。キューインみたいな治療されてもだいたい寝ているくらいには。つねに睡眠不足だし。

虫歯が痛くて駆け込んだいた歯医者はいわゆる「アタリ」だったが「歯石とりませんか」などと言ってくるのは結構面倒だ。俺は噛めればいい。

まあ若くもないし、いや、歳も歳だし、歯茎やばいことがあったら嫌なので、ゆるゆる通っている。

『収容所のプルースト』

 前回の記事で誤って光文社古典新訳文庫に入れた『収容所のプルースト』、実際はこの文庫に入っていたわけではなかったので記事は訂正しておいたが、それはともあれ、タイトルに魅かれ、幸い近くの図書館に収蔵されていたので借りてきて、すぐに読了した(本当は他の仕事に追われており時間がとりにくかったのだが、それほど魅力的だった)。

 著者ジョゼフ・チャプスキはポーランドの画家だが、第二次世界大戦が始まると、当時ポーランド軍将校であったためソ連軍に捕らえられ収容所に送られる(独ソ不可侵条約秘密条項により、ソ連ポーランドに侵攻している)。このポーランド軍人の収容は、衝撃的な「カティンの森」事件に繋がるものだが、この書物はこれに直接に触れるものではない(「カティンの森事件については、アンジェイ・ワイダ監督の映画『カティンの森』がある)。

 極寒の収容所に押し込められたチャプスキたちは、「精神の衰弱と絶望を乗り越え、何もしないで頭脳が錆びつくのを防ぐために」「知的作業に取りかかった。」(同書p.14)。何かしらの専門に通じた人たちが、自分の知ることを講義するのである。こうした中、チャプスキは「フランスとポーランドの絵画について、そしてフランス文学について一連の講義を行った。」(同書p.16)この書は、その講義を再構成したものであり、プルーストの『失われた時を求めて』に関する講義を記したものである(再構成の経緯については色々な推測があるが、それはここでは措く)。

 本書の魅力はまず何よりも、魅力的な『失われた時を求めて』の紹介になっている点だろう。書物自体が手元にないので、チャプスキの紹介は、時に誤りをも含むが(註がそれを明らかにしている)、そうした点を越えて、この長大な作品の本質のいくつかを伝えるものと思う。私自身はと言えば、この大長編を一応は読了しているわけだが、チャプスキが語る諸々の場面を、旧知の人と再会するかのように、楽しく思い出した。そして、読んだ時の思いがチャプスキの言葉によって喚起され強められることもあれば、新たな解釈に目を開かれる思いもした。また、プルーストパスカルとの比較(pp.86-96)は、一見奇矯なものとも思えるが、『失われた時を求めて』のある本質的一面、人間の営みの本質的虚しさの分析という側面を際立たせるものであろう。

 また、この書物は、極めて厳しい状況にある人間がそれでも精神的な生を生きることのできる実例を提供している点で、貴重なものだ。私自身はといえば、不可能なことと知りつつも、映画などから微かに想像できるロシアの極寒の収容所で、チャプスキ自身の肉声に耳を傾けるかのように、この書物を読んだ。極限状態における人間が、それでも、あるいはだからこそ精神的なものを求める、ということは、確かにあると思う。チャプスキ自身が、「メーヌ・ド・ビラン、パスカルシモーヌ・ヴェイユシオラン、ロザノフなど、宗教哲学に関するもの」(同書解説p.164)を枕頭の書とする精神的な人であったことだけが理由ではないだろう。私たちのような俗人もまた、ある種の場面では、精神的なものへと促されるのではないだろうか、との思いを新たにする。そして、そうしたことを大切にしたいとも思う。

 最後になるが、この本は造本が美しい。ゆったりと活字が配置され、ゆっくりと読み進めることができる。チャプスキ自身のノートもカラーで収められており、このノートを記した彼の思いに幾ばくか思いを致すことができる。また、解説もとても丁寧で、チャプスキという、日本では必ずしも知られているとは言えない画家について一定の理解を得ることができるし(彼の写る写真も多く収められている)、さらには、パリの亡命ポーランド人の歴史などを知ることもできる。チャプスキ自身の本文もそうだが、解説もまた、新たな世界に読み手を誘ってくれるものだ。 

 人文学研究の意義を問う人が時にいるが、「こうした書物を世に出すことに繋がるから」というのは、ありうる回答の一つではないか。そして、仮にこの本を読んでも、「いや、文学が何の役に立つかわからない」と言う人がいたら、傲慢を承知で記すが、「そうですか、貴方と私は人間の種類が違うようです。そして、貴方の人生を羨ましいと思うことは、私には決してないでしょう」と言っても良いと思う。

 

 図書館で借りて読了はしたが、書架に置くために購入した(多くのサイトでは、高額な値がついており、定価での入手は難しいように見えますが、多分まだ普通に手に入ります ー関心を抱かれた直接の知人の方は、連絡をくだされば購入方法を連絡します)。まだ届いていないが、この書物をいつでも読むことができることを思うと、今から心が暖かくなってくる。

 

 最後に、序文から二つ引用しておく。

 

「いまでも思い出すのは、マルクスエンゲルスレーニン肖像画の下につめかけた仲間たちが、零下四十五度にまで達する寒さの中での労働のあと、疲れきった顔をしながらも、そのとき私たちが生きていた現実とはあまりにもかけ離れたテーマについて、耳を傾けている姿である。」(pp. 16-17)

 

「わたしたちにはまだ思考し、そのときの状況と何の関係もない精神的な事柄に反応することができる、と証明してくれるような知的努力に従事するのは、ひとつの喜びであり、それは元修道院の食堂で過ごした奇妙な野外授業のあいだ、わたしたちには永遠に失われてしまったと思われる世界を生き直したあの時間を、薔薇色に染めてくれた。

 シベリアと北極圏の境界線の辺りに跡形もなく消え失せた一万五千人の仲間のうち、なぜわたしたち四百人の将校と兵士だけが救われたのかは、まったく理解できない。この悲しい背景の上に置くと、プルーストドラクロワの記憶とともに過ごした時間は、このうえなく幸福な時間に見えてくる。

 このエッセイは、ソ連で過ごした数年のあいだ、わたしたちを生き延びさせてくれたフランスの芸術に対するささやかな感謝の捧げものにすぎない。」(pp. 17-18)

 

M&M's

 

古典新訳文庫の話

 書評集の類いを読むのが好きだ。評されている書物の中身を直接読まずして味わいたいという怠惰な気持ちから来ていることはわかっている。折々、編集者の評伝や回想録に読み耽ってしまう。本づくりに実際に携わることなしにその喜びを味わいたいという邪な気持ちからであることは進んで認める。いずれの喜びも、少々の甘美な罪悪感と共に、今後も味わっていくつもりだ。

 ところで、後者の類いの本は自ずと前者の性質を帯びる。本づくりに取り組む人々を巡る物語が、件の人々の関わった書物の評へと流れていくのは物の道理であろう。この種類の本として、駒井稔『いま、息をしている言葉で。 「光文社古典新訳文庫」誕生秘話』(而立書房、2018年)を読んだ。面白い。

 内容は、タイトルに凝縮されている。「光文社古典新訳文庫」と言えばご存知のように、その全般的な翻訳に対する姿勢、あるいは個別の作品の実際の訳文に少なからぬ批判はあるとはいえ、いわゆる「古典」への垣根を低くし、それまで敬して遠ざけられてきた書物たちの読者層を拡げた点で、日本の出版界に大きな貢献をしたシリーズだ。この「古典新訳文庫」の企画立ちあげから、シリーズの開始、そしてその後を、この企画を立案した編集者が語ったのがこちらの書物である。

 これにさらに、筆者の自伝めいた話が入ってくる。いわゆる大衆向け週刊誌の代表格であった『週刊宝石』に関わった経験や、当人の私的な海外旅行の経験などが主たる話題である。これらが「古典新訳文庫」の立ちあげとどう関わるのか、訝しく思う人もいるかもしれず、またその関わりが十分に説明されてはいないのだが、そこは、読者があれこれ想像を膨らませる部分であろう。私としては、特に『週刊宝石』に関わった経験は、読者にわかるものを、という筆者の根にある姿勢を強くしたのであろう、と、面白く読んだ。なお、多少の自分がたりはあるが、自慢めいた話はないので、いやらしさはない(周囲の方への感謝の方が多い)。

 

 実際の「古典新訳文庫」の立ちあげに関する箇所については、個々細かくは触れない。それでも少しだけ書けば、翻訳者の方々とのやりとりは当然のこと、ページのデザインや「表紙」の紙の材質を巡る話などが面白い(後者については、同書pp.199fを参照されたい)。筆者の語る、ページの文字配置(こういう言葉でよいのかしら?)を巡る配慮も好ましいものだ。内容も去ることながら「モノ」としての書籍の喜びを伝えてもくれる点で、「一粒で二度おいしい」タイプの本と言える。

 

 いや、「「一粒で二度おいしい」タイプ」という言葉はむしろ、この本がやはりいくばくかは、書評の性質を帯びていることについて用いるべきだろう。

 筆者は編集長として、「古典新訳文庫」から公刊される書物すべてに目を通している(ちなみにもう一人そういう人がいて、表紙の画家とのこと -佳話である)。この本では、筆者が本文庫に収められた書物のいくつかについて語るわけだから、自ずと「書評」の性質を帯びていく。扱われている書物には、タイトルに慣れ親しんだ古典もあれば、少なからぬ人にとって初めて目にするタイトルの書物もある。そのいくつかについて、編集者ならでは、つまりは一読者としての良い意味で素朴な感想が記されている。これらは、読み手を新たな世界へと -あるいは若き日に触れた懐かしい世界へと- 誘ってくれる。

 私自身としては、次の書物に特に心魅かれた(自分の心覚えのために記しておきます)。

 

1) ムージル『寄宿生テルレスの混乱』

2) ソル・ファナ『知への賛歌 -修道女ファナの手紙』

3) トーマス・マン『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』(上・下)

4) ロダーリ『猫とともに去りぬ』

5) チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』

 

 1)は、『特性のない男』に手を伸ばす時間はないので、とりあえず読んでみようかしら、と。2)は17世紀末のメキシコの修道女によるもの、とのこと。これだけで手に取って見たくなります。 3)トーマス・マンはある程度読んでいるので(『ファウスト博士』も読んでいるのはちょっと自慢)、折角だからと。ただ、マンの場合、これを読み終えても『ヨセフとその兄弟』が待っている。これはさすがに引退後だな。4)はイタリアの風刺的ファンタジーということで、ちょっと心が疲れたときには良いかもしれない、と。5)は、アフリカへのキリスト教の伝来を、「伝統的な部族社会を変質させていく象徴的な出来事として」(p.313)描く作品とのことです。

 

(※3月17日追記:当初3)には、ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』を挙げていたが、これは古典新訳文庫に入っているわけではなかったので(「共和国」という出版社から出ています)、別のものと差し替え。本書で引用されているので、収められていると早とちりをしてしまいました。消去したコメントは以下の通り。「3)は、第二次世界大戦ソ連収容所で、死の恐怖を忘れるためになされた捕虜たちの自主的な講義でなされた、プルースト講義。記憶に頼るだけで講義ができるほど愛読しているのが素晴らしい! (一度通読したくらいでいばってはいけないと反省)」)

 書物を出すとはどういうことかを学びつつ、自分に気に入る本を探すことができる、という意味で、この本はやはり良書と思う。もしもこちらの本をお読みになったら、紹介されている本のうちでどれに心魅かれたか、お知らせください。

 以下、やや雑駁にであるが、三つ付け加える。

 一つは語り口の問題。筆者は恐らく、「古典新訳文庫」の立ちあげを巡る講演などもかなりしているのだろうか、総じて「書きおろし」というよりは「語りおろし」といった風情で話が進んでいく。このスタイルには好みが分かれると思うが -私は時に、字もう少し固い文体でも良いのでは、と感じた- 割り切って「そうした本だ」と思った方が、楽しめると思う(この、読み手の側のある種の「割り切り」というのは、そもそも「古典新訳文庫」全般について言えると思う -その姿勢や一部の訳文を批判しようと思えばできなくもないが、それよりは、そうした点があることは心の片隅に置きつつも、実際に読める作品を楽しんだほうが良い)

 二つ目。俗ではあるが、この本は、新たなチャレンジ -例えば技術開発など- に関わる胸躍るノンフィクションの一つとして読んでも良いのだろう。また、筆者がこの文庫の企画を立ちあげた年齢と今の私の年齢が近いので、凡庸ではあるが、物事をすぐに不可能と決めつけず、もちろん知性を働かせながらだが、果敢にチャレンジしていくことの大切さを感じるところがあった。

 最後だが、これは少々二つ目の点と関わる。実はこの文庫の企画が立ちあがったころ、光文社に務める知人がいて、「こんな企画が立ちあがっているけれど、どう思う?」と飲んでいる時に聞かれたことがある。「素晴らしいけれど、売れないでしょう」と即答した。幸い見事に外れたとはいえこんな失礼な「予言」をしたことへの罪悪感もあってか、十五年ほど前のあの会話は、酒場の光景と共に、はっきりと記憶に残っている(ちなみに本書を読み、同様の反応の編集者が多かったことを知り、少しだけほっとした)。

 今回長々とこの本について書き継いできたのは、実はこの罪悪感からくる、謝罪めいた気持ちからでもあるのです。

 

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