私がいた中学・高校は、生徒会活動があまり盛んではなかったので、これまで考えたこともなかったのだが、公立中学などの生徒会活動はどのような意義を持つのだろうか、と自問することが増えた。
きっかけは、例によって娘の通う学校のこと。
生徒会めいた活動(実際は別の名称)があるのだが、どうもその活動が、「プチ先生」めいているのだ。「みんなで仲良くしましょう」、「規則正しい生活をしましょう」といったことを生徒に言ってくる。「みなさんは今学期、がんばれましたか?」などといったことを、プリントに平気で書いてくる。率直に言うが、気分が悪い。
もちろん、中身は教育現場で流通するものとして、必ずしもおかしくはない。しかし、こうした言葉はあくまで教員が生徒に向けて発するものであろう。生徒が同世代の生徒に向けて発することではない。しかし、生徒会の生徒たちは、どうも教員を(半ば無意識に模倣しつつ?)こうした言葉を発し、いわば一種のナルシシズムに陥っているのではないだろうか? 真剣に書くのだが、この状況において最大の被害者は、教師の口真似をすることで自己認知をしている、生徒会の生徒たちではないだろうか? 妙な「権威」と同一化することでアイデンティティを確保することほど心理的に危険なことはないのだが、彼ら・彼女らは、中学生にしてその陥穽に嵌っているように見える。
記憶がうろ覚えなのだが、以前観た映画『パリ20区、僕たちのクラス』では、生徒代表は教員と同列に会議に出席し、学校の問題点をいちいち指摘していたように思う。生徒会の理想的な活動は、学校においてむしろ、生徒の側の要望を教員に伝えることではないか? それをせず、教員が言うようなことを口真似しているのなら、それは、「権力の走狗」となることで得られるメリットを、若いうちにすでに知ることにしかならない。それが魂を損なうことであることは、私にとっては言を俟たない。彼ら、彼女らが、文化大革命の時の紅衛兵に見える、と言ったら言葉が過ぎるだろうか?
日本のように、権力に対する健全な批判がエートスになっていない風土(いや、ちょっと大きく出ていることは承知しているのですが、お許しを)において、生徒会活動のようなものは、時に危険になりかねないようにも思う。もちろん、そうした活動を今すぐにやめることが問題なのではない。しかし、仮にそうした活動を意味あるものとしたいなら、まずは教員たちが、少々面倒であろうと、その活動を自らの学校運営に対する批判の言葉が飛び交う場所にするように努めるべきではないだろうか。
M&M's
(遅れに遅れて5月3日記)