注意してくれる人のいるありがたさ

 同僚のKさんが職場を離れることとなった。尊敬し、また大切な友と思っているので(向こうもそう感じてくれているかは心もとない)、大変残念なことではあるが、Kさん自身の選択でもあるので、笑って送り出したいと思っていた。

 この記事の日付である3月15日、Kさん、並びに職場を離れる他の数人の方のための送別会が開かれた。こうした会が開かれるのは五年ぶりのこととなろうか。職場の方々との膝をつき合わせた呑み会も久しぶりということで、その良さを堪能してきた(恐らくこうした会の良さの一つは、重要な案件について、オフィシャルには言えないが重要なやや「プライヴェートな」意見や感じ方を交換する点にあるるのだが、その点には今日は触れない)。

 楽しい酒席であったので、翌日の仕事を考えて欠席のつもりだった二次会にも、そのまま流れで出席したのだが、その席で、私、失言を発してしまった。向かいにはKさん、右隣に尊敬する十以上年長のYさんがおり、「Kさんがいなくなって残念だ」といった話になったときに、文脈は省くが、私は、「実に不愉快」といった発言をしたのだ。もちろん戯言であり、Kさんも笑って聞いていたのだが、Yさんが、座を白けさせぬ穏やかな言い方ではあるが、「そうした言い方はよくないですね」とおっしゃったのだ。正直、一瞬虚をつかれる思いはしたが、「なるほど、それももっとも」と思い、「失礼しました」と言ったところ、Yさんが、「いや、そんなふうに言える仲なんでしょうが」ととりなす感じでおっしゃり、私が「いえいえ、失礼しました」と、YさんとKさんにお二人に曖昧に向けたような言葉を発し、一段落、話題はすーっと、別の事柄へと移っていった。

 いくつになっても、私はこういう失言をしてしまう。自己嫌悪に陥ることはなかったが、翌日、翌日と、少しこの場面を反芻してみた。そうすると、改めて、あの席で「そうした言い方はよくないですね」とおっしゃってくださったYさんのありがたみが心に染みてくる。もういい年の私に対して、折々私の言動を厳しくジャッジする妻と娘を除いては、私に厳しい意見をしてくださる方は減っている。また一般的な観点から言っても、昨今の風潮において、年少者に厳しい意見を言う人は減っているだろう。今回のことは「厳しい意見」というほどではないが、いずれにせよ、このようにやんわりと年下の非礼をたしなめることのできる「大人」は少なくなっているのではないか。

 こうした一般的な認識を背景とすれば、Yさんの言葉のありがたみが、一段と大きく思えてくる。この夜の酒席は、(この記事では触れていないが)Kさんという友人のありがたみを確認する機会であると同時に、Yさんのありがたみを感じとる機会ともなったのだった。

 

 こうした認識を少し拡大するならば、若い人には、「自分を叱ってくれる年長者のありがたみを知ることは良い」と伝えてよいことになろう。実際私もそう思う部分はあるし、娘にもそのように伝えている。とはいえ、これは、年長者が年少者に伝える言葉としては、やはり危険なものだ。要は「四の五の言わずに、年長者の言うことを聞け」と言っているようにもとられかねないし、実際、そうした底意があって、「叱ってくれる年長者のありがたさ」を説く、底意の卑しい人も山ほどいよう ーしかも、大概そうした人たちは、自分の底意の卑しさに気づいていない。私自身、若い人を叱ることのある立場にあり、かつその面倒はよくわかっているので、一方で「叱るとは、エネルギーを要することであり、相手を思っていなければできないことだ」という認識に賛同しつつも、これまでの人生で、「あなたのために叱っている」と言いながら、どう見ても自分のストレスを発散している(あるいは、自分に反論された腹いせに叱っている)としか見えない人を山ほど見てきたので、この認識をストレートに若い人に伝えることには、大いに抵抗がある。

 そうすると、私自身ができることは、年少者が「年長の〇〇さんに叱られて・・・」と愚痴を言っているのに際して、「○○さんも、君のことを思って言ってくれたのではないかな、そういう人は貴重だよ」と、具体的な場面に即してこの認識を伝えていくしかないのだろう。

 難しいものです。

 

M&M's

(3月22日記)