亡き恩師のお宅に伺う

 過日、七年前に亡くなった恩師のお宅にご挨拶に伺ってきた。コロナがあったので、正確かは心もとないが、五年ぶりくらいになろうか。恩師の方の奥さまと私自身の〇十年来の友人でもある息子さんと、三人、食事をしつつ、近況を報告しあう席をもったわけだ。奥さまが諸事情でこの家を離れられることとなり、「M&M'sくん、その前にいらっしゃい」とご招待を受けた次第。

 こちらのお宅を訪れたのは、誇張なしに三十回か四十回ほどになると思う。高校、大学時代にも何度かお邪魔したし(今回、その頃の写真を見せていただいた)、その後も、何度となくご挨拶に訪れている。最寄りの駅からお宅まで歩く際にも、数年ぶりなのに、体が迷いなく動いていく。

 心づくしのサラダ、サンドウィッチ、ポトフと美味しいワインをいただきつつ、三時間ほど歓談の時を持った。話題は、ここ数年の自身や家族の経験、あるいは最近の仕事などを巡ることだったが、自ずと亡き恩師の方へとも移っていく。引き払うために少しずつ片付けられたお部屋を拝見していると、ふと、その場に先生がいらっしゃらないことが大きな喪失として感じられ、比喩ではなく瞼に涙が浮かんできた。その思いが私より遥かに深い奥さまとご子息を前にして失礼とは知りつつ、感じたことをそのままお二人に口にした。と同時に、この哀しみは決して悪いものではない、と、こちらのお宅ですごさせていただいた時間の喜びが深いからこそ感じられるもので、そう思えばむしろ甘やかな哀しみとも呼びうる、と、心の底から感じ取った。もう一人、別の恩師が言っていた、「どのような哀しみであれ、それを感じないよりは感じる方が豊かな人生だ」という言葉が思い出される。

 

 先生はお亡くなりになる少し前、お二人が病室にいる時に、「しあわせな人生だったよ」とおっしゃったとのこと。他人との妙な競争に明け暮れることなく、ご自分の道をしっかりと歩まれながら、同時に多くの方のために尽くされた人生なので、もちろん先生ご自身の偽りなき言葉なのだと思うが、この言葉は同時に、お二人(あと、その場にいらっしゃらなかったお嬢さま)に、わけても奥さまに向けてのものだったと思う。そうしたお心遣いを、自然に示す方だった。

 こうした方を恩師と呼べることを(しかし、先生はそう呼ぶことを私に許してくださるだろうか?)、人生の最大の幸運に数えたい。

 

M&M's

 

(3月2日記)