正論は危険だというけれど

 「正論」を声高に言うことの危険が、以前以上に強調されるようになって久しい。SNSにおける匿名の「正論」の合唱を見ていると、そうした危険の指摘もよくわる。芸能人の不倫に対しての批判などを見ていると、みんな、もう少し別のことに興味を持とうよ、と、言いたくもなろう。

 また、いじめを巡って、「加害児童の人権」であるとか「矯正可能性」といった言葉を発する人を見ると、「それは、お題目の繰り返しにすぎないのでは? そんな姿勢でいじめが解決するなら、あなた方の仕事はAIにとってかわられるよ」と、皮肉の一つも言いたくなる。

 

 もっとも、「正論の危険性」を指摘する人が、まさにそうした「正論」に反している時は、やはり違和感を覚えざるをえない。いじめの加害者が「加害者の人権」を唱える姿などを見たり、何かしらの悪行を犯した人が、糾弾する人に対して「正論の危険」を説くのを見ると、「盗人猛々しい」という言葉が喉元まで出る(と言うか、実際に相手にそう言ってしまうこともある)。

 「正論の危険」を説くのは、やはり第三者であろうし、加えてそれを説くタイミングもあろう(例えば、相手が深く反省しているのをさらに追い込むのがよくない、という点には、私も賛同する)。こうした微妙な点を抜きにして「正論の危険性」を説くことは、逆に、世間にある程度通用してほしい社会正義を骨抜きにする危険もあるかもしれない。

 そうしたことを考えることがあった、ということです。

 

M&M's

(遅れに遅れて2月19日記、充実の毎日ではあります)