姿の見えないX

最近、岡潔の随筆を拾い読みしています。面白かったところを引用。

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 数学の問題にふけりながら時計を見に行くと、いろんなことがある。熱中ぶりのいちばんひどいときは、何をしに行ったのか忘れて、便所へ行って、小便をして、そのまま上る。考え込み方のもう少し浅いときは、時計があることだけを見て上る。文字通り時計を見てくるわけだが、これでは仕方がない。もう少し浅いときは針の位置だけを見て、それを記憶する。部屋へ戻ってから、どちらが長針、どちらが短針とだいたい推理して、それで何時何分かわかる。このときは記憶だけして、あとで大脳前頭葉を使って判断するわけである。一番浅いときは、時計を見てその場で時間が分かる。そしてこのときは、何のために時計を見たかも、ちゃんとわかっている。大脳前頭葉による判断がずっと働いているわけである。
 こういうふうに、私は大脳前頭葉を働かせなければ判断できないように訓練されているので、数学に没入しているときは、それ以外の外界の景色などが目に入ろうと入るまいと、全然無関心になっている。完全な精神統一が行なわれ、外界と私との交渉は、判断の前で断ち切られているといえる。そしてこのときには、のどかな春のような喜びが伴い、いろいろなことが、分かってくる。それが情操型の発見なのである。
 これでわかるように、私は数学の研究に没入しているときは、自分を意識するということがない。つまりいつも童心の時期にいるわけである。そこへ行こうと思えば、自我を抑止すればそれでよい。それで私は、私の研究室員に「数学は数え年三つまでのところで研究し、四つのところで表現するのだ。五つ以降は決して入れてはならない」と口ぐせのように教えている。

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私は学生をABCの三級に大別していた。上ほどよいのであるが、Cは数学を記号だと思っているもの、Bは数学を言葉だと思っているものである。寺田寅彦先生は、先生ご自身の言葉によると、正にこのクラスである。それからAは数学は姿の見えないXであって、だから口ではいえないが、このXが言葉をあやつっているのであると、無自覚裡にでもよいから知っているものである。


岡潔『春風夏雨』

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「姿の見えないXが言葉をあやつっている」ふうになるとき、「のどかな春のような喜びが伴い、いろいろなことが、分かってくる」というのは、いろんな人が経験していることなんじゃないかなと思います。


こけぐま