『徒然草』第三十一段

 三週間前に書いたように、時折子どもと『徒然草』を朗読している。高校の古文の授業などで触れたことのある段も多く、旧知の知人を久々に見かけたような思いがする。段によって感慨深いものもあれば、それほどではないものがあるのも、人間の場合と同じだろうか。

 前者に入るものとして、第三十一段がある。雪が趣深く降るある朝、ある人のところに用事があって、雪のことには触れずに送った手紙に、「この雪いかが見ると、一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしき人のおほせらるる事、聞きいるべきかは、返々(かへすがえす)口をしき御心なり」との返事があった、との段である。返事の意は、「この雪をどう思いますか、と一言書き添えてもいらっしゃらぬ趣のわからぬ人のおっしゃることをお聞きするべきでしょうか、それにしても情けない方ですね」くらいになろう。この後、この返事について「をかしかりしか」と続く。

 印象的なのは結語で、「今は亡き人なれば、かばかりの事も忘れがたし」とある。この短い言葉が、件のやりとりの現実感を一挙に希薄にし、過ぎ去ったことのすべてを夢のように美しいと観ずる心へと、人を誘っているかのようだ。「昔の人の袖の香ぞする」と同じく、過去と現在とが一瞬に凝縮されたような時間感覚へと人を導くように思う。

 そうしたこともあって、この段は心に残っている。

 

 この段の現代語訳については、件の返事を認めた人物については、年長の男性のようにしているものが多いように思う。微かな記憶だが、私が最初に触れたものもそうだった。もちろん、年長の男性とのそうしたやりとりは十分にあり得よう。だがそうすると、「ひがひがしき人のおほせらるる事、聞きいるべきかは」という箇所が厳しく響き、その後の「をかしかりしか」へと自然に続かぬように感じてしまう。結語とは一応繋がるが、何か違和感が残る。私の記憶にこの段が残る理由に、結語の美しさだけではなく、この違和感もあるかもしれない。

 ところで先日、娘とこの段を朗読していて、はたと思い当たった。これは書き手の若き日の恋人であったのではないか。だとすれば、合点がいく。美しい雪の朝、景色に誘われてか会いたいとの気持ちが募り、都合を伺う手紙を書く、すると思い人が、意地悪に「あなたはこの綺麗な雪のことにも触れられないのですね、そんな方と会う気にはならないものですよ」と、わざとすねて見せている。そう見立てれば、「ひがひがしき人のおほせられる事、聞きいるべきかは」という言葉も、むしろ恋人同士の微笑ましい戯れと見え、「をかしかりしか」になだらかに繋がる。そして、結語もなんともいえぬ趣を増す。言葉、思いの連なりが完全な調和を見せる、と言えば、言い過ぎだろうか。

 

 専門的な註釈などを見ていないので何とも言えないが、少し考えれば思いつきそうなことではある。案外よくある解釈なのかもしれない(ただし、ちょっと検索をかけた限りでは、同様の解釈を述べているものは、一つそうしたブログがあっただけだった)。ただ、数学の難問の解法がひらめくような思いをしてなんとも嬉しくあったので、一言書き記しておく次第。

 なお、この三十一段の前後は、「亡き人」を巡る思いが記されている段が続く。第二十九段にある「・・・残しおかじと思ふ反古など破りすつる中に、亡き人の手ならひ、絵かきすさびたる見出でたるこそ、ただその折の心地すれ」というのも、この三十一段と同じ心であろう。これら「亡き人」を巡る前後数段について、いずれ折があれば、『徒然草』に詳しい人にその連なりを巡る話を聞いてみたいものだ。

 

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