谷崎のとある小説から思ったこと

 残念ながら谷崎の小説はほとんど読んでいない。中学か高校の頃『春琴抄』を手に取ったことはあるが、例の結末に衝撃を受け、以来他のものを好んで読もうという気持ちにはならなかった(なお、最近偶々知ったのですが、佐助犯人説という解釈があるそうです)。二十代の半ばに『細雪』に手を出し、細部で覚えている箇所もあるのでそれなりに楽しく読んだはずだが、最後までには至らなかった。当然ながら『痴人の愛』も読んでいない。さすがに粗筋は知っており、実は心惹かれるところもあるのだが、何かの心理的規制が働くのか手に取るにすら至っていない。

 

 ところで我が家では、午前中家人がラジオをかけはなしにしている。在宅勤務で家にいる時間が増えると、そちらに耳を向ける時間も自ずと増える。語学番組などは、少し集中するだけでもリスニングの良い練習にもなる。もちろん気を張らなくとも良い。聞き流すだけでリラックスできるようにと、ラジオの作り手の方々は考えているように思う。だから、この習慣は気に入っている。

 最近、こちらの「朗読」の枠で『痴人の愛』が始まった。読み手の方の落ち着いた語り口を通した谷崎の名文は耳に心地よく、時折仕事の手を休めながら耳を傾けている。もともと粗筋を知っているためか、なるほどこんなふうに話が進むのね、とか、「ナオミ、すごいな」「譲治、だめだな」などと思いながら、聞いている。登場人物の行動を巡る感想を時々家人と話し合いもする。良い時間である。

 

 さらにがらりと話が変わるが、ちょっと知っている子になかなかすごい子がいる(以下の記述、あくまで私の独断、偏見としてお読みください)。仮にZという名前とする。相当自分が可愛いと思っているらしく、自意識も相当強いようで、周囲の男性は皆自分が好きで当然と思っているらしいことが言葉の端々に表れているらしい(その一端は私も自分の耳で聞いたことがある)。これだけでもかなり困ったことなのだが、私はこの子に虚言癖があるのではと疑っている。以前、この子、そして親とちょっとしたやりとりがあったのだが、色々と両者の話の辻褄が合わないのだ。ただ、私が我が子を信じるのと同程度に(あるいはそれ以上に)先方も自分の子を信じているだろうから、そこを突けば話はややこしくなるので、放っておいた。愚痴、あるいはこの子の糾弾が狙いなら他にも書きたいことはあるのだが、それが目的ではないのでやめておく。ただ、自意識が相当強く、複数の男性が自分に興味があるという事態を幸せと思い、少々虚言癖があるらしき子がいる、というのがポイントです。

 さて、予想された方もいると思うが、この子がどうもナオミと重なるようになってしまった。ナオミの振る舞いをラジオで聞いていると、「なんかこれってあの子みたい」などと思ってしまう。お世辞にも品があるとは言えぬ比較なので「こういうの、やめた方がいいんだよな」と思いつつもやめられない。先日ナオミが嘘をつき始めたときは、「おっ、ついに始まった、あの子と似ているな」などと思ってしまった。

 もっとも、品がないとはいえ多少の効用はある。この朗読が始まる以前は、Zという子の行動・言動に対し苛立ちに近い感情を覚えることが多かった。「苛立ち」という言葉が強いのなら、「やれやれ」という徒労に近い感覚と言おうか。いずれにせよ心が多少は疲れる。しかし、この朗読の時間が始まってから、少し俯瞰した感じでその行動・言動を捉えることができるようになってきた。「ナオミと似ているな」というフィルターを通すことで、その行動・言動が直接に私の心に影響を与えることがなくなった、ということかと思う。個人を通り越した人間の類型のようなものが見えてきて、むしろ科学者のような好奇心をもって件の子を観察している感じだろうか(かの小説の主人公、河合譲治のように、取り込まれているわけではありません)。

 フィクションの社会的効用(もう少し固く言うなら「文学の社会的意義」というやつですね)が何か、時々論じられることがあるが、私が今述べたような事態は、案外とそうした効用に入るのではないかしら。私たちは実生活の中でどうやってもウマの合わない、あるいは苛立ちを覚える人と出会うけれど、そうした人のあれこれに直接心動かされているのではたまらない。どこかで俯瞰せねばならない。そのためには、フィクションの人物との重ね合わせ、というのは、実は有効かもしれない。この重ね合わせによって、私たちは件の人と距離をとることができるようにも思う。

 『痴人の愛』の感想としては不適切なのだが、その朗読を聞き、自分の心の動きを追いながら思ったのはこんなこと。どうしても好きになれない人との出会いは幸い少ないのだが、それでもそんなことが先々あったなら、この「重ね合わせ」を試してみようかしら。

 

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