うろたえる私たち

 各地でだいぶ状況も改善しているらしい。私の住む地域は、一時期と比べると明るい兆しも見えるとはいえ、予断は許さぬ状況にある。とはいえ、他の地域の明るいニュースを見ると心が多少とも晴れやかになる。今回ほど、たとえ自分たちの状況がつらかろうとも、他の地域の人が穏やかに暮らしてほしい、と願ったことはない。自分が別に利他的とは思わないが、他の人々の明るい暮らしを願い祈ることが私たちの心を穏やかにしてくれることは、確かにあるようだ。そこに私たちの希望が見えるからだろうか。

 

 それはともかく、4月あたり、この状況がだいぶ厳しくなってきたから、ずっと心に抱いている仮説がある。私たちの心理に関するものだ。もちろん私たちはとてもうろたえている。未来に対する不安、ウィルスが引き起こす病に対する不安だけでなく、あるいはそれ以上に、それに付随する様々な問題が私たちをうろたえさせる。だが、問題はそれだけに尽きないように思う。

 どうも私たちは、この問題が生じる前は、自分たちの能力に酔いしれ多幸感を味わっていたのだが、今回のことで深くそのプライドが傷つけられたことを、暗に認めたくないのではないだろうか。それが私の仮説である。

 問題発生以前の万能感も無理からぬところだ。経済的事情が許すなら世界のかなりのところに行くことができ、望むがままの旅をすることができた。休日はドライヴに出かけ、美食を味わうことができた。もちろん未来に向けての問題は山積みだが、それからちょっと目を逸らして今を享楽したい、そんな私たちの思いに、社会は「どうぞどうぞ」と応えてきた。少々、いや、かなり調子に乗っていたと言うべきだろう。別にそれを責めたり、道徳的な反省をしたいわけではない。私自身もそうした状態を楽しんでいたのだから。皆でそうした社会を作り上げてきたのだ。

 ところが、今回のことで、そうした社会は、これほど小さいウィルスによってかくも機能を停滞させることがわかった。そして、私たちの万能感は深く傷つけられた。ところで、個人的心理の水準においては、そうした事態、つまり調子に乗っていた個人はその足元をすくわれプライドを傷つけられると、そうした事態を否認し、無視し、自身のプライドを守るように思う。そしてさらには、他者への攻撃性を発揮することで、どうにか自分のうちの「何か」を守ろうとする。私が思うのは、こうした心理的反応が、集団的心理でいくばくか、いや、かなりの効果を及ぼしていないか、ということなのだ。

 調子に乗っていたことは、仕方がないとはいえ、少々恥ずかしいところもあることだ。そうした恥ずかしさを突き付けられたとき、私たちはいたたまれない気持ちになり、何らかの手段でそうした恥ずかしさを誤魔化そうとする。この心理的カニズムが、私たちの心の中で働いてはいないのだろうか? 私たちが狼狽し、うろたえている事態の底に、さらに、こうした一種の「否認」「ごまかし」があるかもしれない、と、時に思うのだ。私たちは、かくも弱い自分たちを認めたくないのではないか?

 しかし、この状況、いくつか大切なものがあるが、不安に苛まれる中で、穏やかで健やかな心を無理はせずに保とうと、日々を大切にすごすことは、明らかにその一つだろう。こうした心を保つためには、自分たちの狼狽の拠ってくるところを明らかにすることが役立つように思う。

 恐らく、私たちはとても調子に乗っていて、自分に満足していた -だが実際にはかくも私たちが弱い存在であることを突き付けられ、狼狽し、この落差を受けいれられずにいる。だが、心を穏やかに保つためには、私たちのあるがままを受けいれるほうが良い。自分たちが調子に乗っていたこと、恥ずかしいくらいに自分たちに酔っていたことを、自然なこととして許し、今、なすすべもなくうろたえる私たちの姿を当然のこととして認め、未来に対する不安も受けいれるべきこととして甘受する。そうした視点の中で、自分の振る舞いや人々の行動を見つめるとき、ほんの少しだが、人間というものがいとおしく見えてくるようにも思う。そして、病それ自身に対するものではないが、それに傷つけられている私たちの心に関して、微かな救いが現われるようにも思うのだ。

 

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