ラジオから学ぶこと(1)

 ラジオが好きだ。我が家では、朝は語学の番組をかけ放しにしており、食事のときも、ラジオのニュースをかけ放しにしていることが多い。生活にあまり侵入してこないので、家事をしながら聞いていることもできる。

 こうしたことを言わずとも、ラジオの利点は多い。しばしば語られるが、電池だけで働くラジオは、災害時にその威力を発揮する。二年前の地震のときに、その利便性を痛感した。もっともあの時は、途中で電池が切れてしまい、情報が入ってこないという状況を途中からは「楽しむ」(?)ことになりましたが。

 ところで、ラジオのメリットで昔から思っていることがある。いつか、精密に、事柄に沿った形で書いてみたいと思っているのだが、それは、「ラジオには、孤独な人々を孤独なままに繋ぐ力があるのではないか」というものだ。

 そんなことを思ったのは、何年か前、東京の実家に、夜中に酔って帰宅した時(出張の時は大体こんな感じ)に、奥の母の部屋から、落ち着いた「ラジオ深夜便」の声が聞こえてきたことがきっかけだ。母は夫(私の父)を亡くして久しい。私の妹と一緒に住んでおり、友人もいるが、相対的には寂しさを抱えてきたことも多かろう。そうした人が深夜、ラジオに耳を傾けている姿は、どこか心を打つものがある。もちろんパーソナリティの方の語りも素晴らしいのだが、そうした語りに一人耳を傾ける人間の姿には、何か尊いものがあるように思う。もう一つ、私の心を打つのは、読者からの手紙。「~市にお住いの、Xさんからのお便りです。お読みします。「いつも楽しく聞いています。先週の放送でご紹介していた~」」といった感じで読まれるあの手紙は、この広い空の下に、自分と同じようにこの番組に耳を傾けている人が何人かはいることを知らせてくれる。そうして、「自分と同じような人がいる」という思いは、私たちの孤独を本質的に慰めてくれる。

 最近はそうした機会も減ったが、高校生のころから、時折、夜半に走るJRを利用して旅をしたり出張に出たりしてきた。人家疎らな地域を走っていると、ぽつぽつと見える灯りは、心を慰めてくれる。別に妙に感傷的なわけではないのだが、あの灯りの下にも人の生活があるのと思うと、何かしら嬉しい気持ちになってくるのだ。

 俗情であろう。だが、俗情の中にも幾ばくかの真実はある。

 ラジオには、ここで記していることでつかまえたい何か、これを私たちの心に呼び戻す力がある。この「何か」とは、人類が始まって以来大切にしてきた感情を伝えてくれるものだと思うのだが、妄想であろうか。いずれにせよ、この「何か」を言葉にしたいと願っているのです。

 そして、ラジオの大切さは現状むしろ増しており、私たちはラジオから学ぶことが今でも、いや、今こそ多くあると思うのですが、それは来週、ということで。

 

M&M's