やってしまった、ということ

 前回のような記事を書くと、自分が過去にしでかした失敗をあれこれ思い出してしまう。中にはとても他人様には言えないようなものもあり、しかもそのうちには道徳的・倫理的に問題あるものもあるにはあって(大いに反省しています)これはもう墓場まで持っていく所存。

 反面、「粗忽」という言葉が当てはまる失敗は、なぜか人に話したくなる。道徳的には問題のない小さな失敗には、人の心をほぐすようなところがあるのではないか。そのためか、私たちは自分の小さな失敗を語ったり、あるいは他人の小さな失敗を聞くことを好むように思う。それにそうした挿話は、失敗をする人間への寛容な眼差しを育てるという効用があるようにも思うのだ。

 

 いやいや、そんな堅苦しい口上はいらない。要はふと思い出した昔の失敗を書き付けたくなっただけのこと。「昔がたり」が続いてしまっているけれど、こうした時期、時にそのように過去に一瞬逃避したりするのも悪くはないでしょう。

 

 15年ほど前のこと。とある日曜の朝、朝10時すぎであったか、前日したたかに飲んだ私は、二日酔いの頭を抱えながら台所に入っていった。初夏の陽気の好天の日であったと記憶している。私は当時実家暮らしだったが、家族は出払っているようだった。とりあえず水を、とでも思って流しに目をやると、ちょうど流しの台にある湯呑に水がなみなみとついである。これ幸いとばかりに手にとって一気にニ、三口飲み込むと -喉が灼けるように熱い ― そして、味は薬品のようだー ほんの数秒でわかった。「薬品のよう」なのではなく「薬品」なのだ。ぎょっとして周りを見ると、漂白剤が置いてある。母が出がけに、茶渋をとるために茶碗に水と漂白剤を入れていったのだ。

 細かいことはよく覚えていないが、とにかくそんなふうに推測した。

 漂白剤がどの程度胃腸やらによくないかは今でも知らない(まあ、濃度によるのでしょう)。ともあれ、これは最悪のことも考えなければならない、と結構パニックに陥り、生まれて初めて救急を呼んだ。そして生まれて初めて救急車に載り(救急隊員の人たちはあきれていたようにも思うがこのあたりの記憶は曖昧)、ちょうど休日の当番だった内科に運ばれた。お医者さんは「やれやれ」といった感じだったが、「まあ念のため」ということで胃洗浄をしてくださった。

 当初はパニックに陥ったが、最後は拍子抜けするほどあっけなくすべてが終了、昼過ぎにとぼとぼと帰宅してひと段落した次第。当然ながら母を責めるわけにもいかず、こんなことがありました、と報告、母もさすがにあきれていました(当たり前)。

 

 現状、以前より救急車の音が耳につく。不安な人が呼んでいる事例も多かろう、と推測する。こうした緊張感のある状況で、こんな仕方で救急車を呼んだら、隊員の人もさすがに怒るだろうな、などと、今の状況と重ね合わせつつ昔のことを思い出しています。

 

 こうした「小さな失敗」(いや、「小さな失敗」じゃないよとお考えの人もいるかもしれませんが、そこはご容赦を)をすると、ついつい人に話したくなる、というのは当時も変わらなかった。翌日職場で、嬉々として同僚にこの件を話して回ったのだが、母親くらいの年のKさんに、「これでM&M'sの腹黒いのが少しは治ってよかったんじゃな~い」とバッサリ言われてしまった。うまいことを言うな~、と思った記憶がある。

 そうなのです、私の性格の良さはこのときの漂白剤のおかげなのです、というオチをつけようとこの文章を書いてきたのですが、段々みっともなくなってきたので、これにてオシマイ -この文章を書いたこと自体を、将来「やってしまった」と思い出しそうな予感がします-

 

M&M's