「福袋」を巡る考察

 大手の文具店から新年初売り福袋の広告メールが送られてきて見入ってしまった。例えば、3万円の福袋だと、それ以上の値段の万年筆かボールペン、いずれかがメインで、後は、それなりのノート、折りたたみ傘などが入っている。1万円の袋のほうも、万年筆かボールペンをメインにしたものがあり、計四種類だ。万年筆とボールペンについてはもう八年近く前、消費税が上がる前に「えい!」とそれなりのものを買って今でも愛用しているものがあり、困っていないのだが、ボールペンなどは気分を変えるためにもう一つくらい良いものを持っていても、と日頃から思っている。だから、この広告を見ていると、「自分へのゴホウビ」「今年はガマンの一年だったしいいんじゃない」と、この上なく凡庸な悪魔のささやきが聞こえてくる。
 もともと自分自身について、福袋の類いにはそんなに興味がないと思っていた。新年初売りの服の福袋の類いには興味を抱いたことすらない。中身のわからないものには手が出せないな、と思っていた。それだけに、文房具の福袋を買うか買わないかにこれほど自分で吟味をすることになるとは思っていなかった。入っているのはどんなノートだろうか、素敵なノートが部屋に一冊あったら気分も変わるだろうか、などと、手に入れてもいないのに、プレゼントの袋を開く直前の子どものような心持になってしまう。一応お店に在庫を問い合わせてみたところ、まだ僅少だが残りがあるとのこと。悩ましい。売れきれてしまっていたら諦めもつくのだが。
 結局こんなにあれこれ悩むのは、私が福袋の類は嫌いではない、というかどちらかというと好きだからなのだろう。服の福袋に関心がないのは、私が服にあまり関心がないだけの話だ。
 考えてみると、ついつい購入してしまうCDのボックスには福袋的要素がある。CDのボックスにはいくつかコンセプトがあって、作曲家によるもの、演奏家によるものの他、あるレーベルが代表的な過去のCDを10枚なり50枚なりにまとめたものがある。この最後のものは、その気になれば中身がわかるとはいえ、福袋的要素が強かろう。このタイプのCDのボックスは何種類か持っているか、時々、その中から知らない作曲家の曲が入ったCDを引っ張り出して聴いている。興が乗れば、同じ作曲家の別の曲を探したり同時代のことを調べることともなり、勉強の良いきっかけになる。あるテーマに従った短編小説やエッセイのアンソロジーなどにも同じような趣があろう。こうしたものは、新しい作品、新しい作家との良き出会いを提供してくれる。
 福袋には、そうした「出会い」の喜びが確かにある。もっとも「出会い」の喜びというと聞こえが良いが、そのさらに奥底にあるのは、実は「怠惰への志向」といったものかもしれない。多くの人は、CDなり本なりを買う時は、それなりに吟味をするだろう。少なくとも私はそうだ。この吟味というのが、楽しいとはいえ、案外と疲れる。それだけに、選択の苦労を徹底的に他人に委ね、専ら選ばれた作品を享受していたいという誘惑は大きい。「福袋」は、そうした秘かな願望に応えてくれるものかもしれない。

 こんなふうに考えるなら、「福袋」を買う、というのは、案外と私たちの心理の本質的な部分を反映した営みと言える。
 まずもって、「得をしたい」という根深い功利的な心理がある。また、「何が入っているのだろう?」というあの子ども時代の明るさに満ちた期待を再現したい、という思いがあろう(ちなみにベルクソンは『笑い』の中で、大人の喜びというのも子ども時代の快楽の反復に他ならない、と述べている)。これと密接に関わるが、新しい出会いへの期待というものもあろう。最後にだが、自分で熟考の上選択するという責務を放棄し、何か別のものに徹底的に身を委ねるという喜びがある(語弊はあろうが、マゾヒズムと隣り合わせかもしれない)。

 もっと言ってしまえば、人生というもの自体が福袋に似ているとも言える。最近流行りの「親ガチャ」という言葉 ー決して良い言葉ではないが、事態の一端は確かについている- が指す事情は、福袋に喩えられなくもない。もちろん、人生の方が選択肢ははるかに多いし、選択肢自体を自分で変えていく余地が大きいという点で本質的な違いがあるけれど、「人生」と「福袋」を重ね合わせることで見えてくるものも色々とあるかもしれない。例えば、成長というのは、自分が選べる「福袋」の種類それ自体を自分自身の力で増やしていくこととも言えないかしら?

 案外事柄の核心をついているような気がするのですが、どうでしょう?

 こんなことを書いているうちに、文房具福袋への欲求は鎮まってしまったような気がします。しかし、それはそれで惜しい。「買おうかしら、どうしようかしら」と思い悩むのも、案外と楽しいものですね。

 

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