小学校の時の担任に電話をする

 ちょっと思うところあって、私の小学校の時の担任に電話をしてみた。母が数年前に別件で連絡をとり、今でも住所と電話番号が残っているので、思い切って電話をしてみた次第。東京にお住まいなので、思いもかけぬ市外局番の表示に戸惑われたのか、最初は留守電になってしまったが、「19xx年度に○○小学校でお世話になったM&M'sです。電話番号はxxxxxxxxxx、よろしければ、ご連絡をください」とメッセージを残したら、すぐにかかってきた。なかなかの距離で電話だが気になるところでもあり、「そのまま話すのでいいですよ」という先生に、「電話代、結構かかりますよ。先生の教え子が、ちゃんとかけなおすような人間じゃなければ、困るんじゃないですか?」といったら、笑いながら、「じゃあ、かけなおして」とおっしゃった。

 このK先生に教わったクラスの思い出は総じて良いものだった。K先生は、私の人生の中で「よかった先生」のベスト5,もしかしたらベスト3に入るかもしれない。明るく過ごすことの大切さや、人に心遣いをするよう心掛けることの意味を教わったように思っている。ちょっと子どものことでいろいろとご相談したかったのだが、最初からその要件も野暮なので、この日はもっぱら思い出話に花を咲かせた。途中、娘が「ぜひ、お話ししたい」というので、先生と娘も会話を交わした。娘としては、ぜひぜひ私の失敗話、いかに私がダメな人間かを聞き出したかったようだが、先生とて、仮にあろうがそんなことはお話にならず、私をほめるばかり。娘としては満足のいくものではなかったようだ(笑-とてもやさしい感じのいい先生、とは言っていました)。

 今後も折々ご連絡を、ということで、この日は電話を終えた。

 

 「声」の力というものは偉大なもので、こうしてお話しすると、自分の心が、比喩ではなく四十年前に運ばれていくのがわかる。こういう言い方がお好きではない方のために言えば、自分の心のうちにあり、四十年前にできた層に身を浸し、生きなおしている感覚、ということになろうか。

 そこで、ふと一つの「実験」をしてみることとした。

 それなりに生きていれば誰にでもあると思うが、私にも、直面することを避けるような、ややつらい記憶がある。それを思い出すと、少々心がえぐられるような気分がする事柄だ。二十歳すぎのころのことだ。もちろん、そうした出来事が今の自分というものを作っていることはよくわかっており、その意味で「肯定」しているのだが、その「肯定」のためには、何かしら知的な手続きが必要で、何かの折に当の出来事を思い出すときの最初に苦々しい感じは今でも時折残る。

 ところで、今回、四十年前の感覚を生きなおしている感覚を味わっているときに、今であれば、上に記したつらい記憶と直面できるのではないか、と思った。この出来事以前の記憶を味わっている今なら、むしろこのつらい記憶と向き合っても大丈夫ではないか、そして、この作業をしておけば、将来またこの記憶が蘇ろうと、つらさは和らげられるのではないか、そんなふうに思ったのだ。

 そうした次第で、もちろん詳細は避けるが、ある方法を用いて、件の記憶と向き合ってみたのだ。そうすると、予想していた通りの効果が得られた。当該の出来事を、自分のこととして引き受けつつも、妙に感情に揺り動かされることはなかったのだ。「そういうこともあったね~」という感じ、と記せば、うまく伝わるだろうか?

 ある程度の長さを生きれば、誰もが何かしらつらい記憶というのは抱えるものであり、それぞれの人が自分なりに対処法を考えるしかない。私の場合、過去にもいろいろな方法を試してきたが、幸福だった過去をしっかりと味わう、というのは、この対処法のうちの有効なものの一つに数えてもみたい。

 

M&M's