プライド、この厄介なるもの

 プライドを持つことは大切だと思う。しかし、いかなるプライドを持つべきかと考えるためには、その諸相を見極め、良き姿と悪しき姿を見極める予備作業が必要となろう。有効な、己の成長に資するプライドとは、何か「自分」以外のものを「価値」として立て、その「価値」と積極的な関係を保つ中で生まれて来る自尊感情だと思う。一番簡単な例で言えば、「他人との約束の時間は絶対守る」人は、少なくともその件に関しては「時間を守る」自分にプライドを持って良いと思う。「野球」という領域に身を捧げようと心に定め、この領域での技術の向上が要請する鍛錬に打ち込む人は、その限りにおいて「野球に打ち込む自分」にプライドを持って良いと思う。そのプライドが真正なものであるなら、第三者の眼差しは問題とならないだろう(ただし、全く第三者が入ってこないと、自分が勘違いをする可能性があるので、適切な第三者にはやはりいてもらった方がよいのだが)。

 こう考えると、悪しきプライドというのは簡単に定義できるように思う。「生の自分」をそのまま価値の基準にすること、他のあらゆる基準を「生の自分」に従わせることが「悪しきプライド」の特徴となろう。あるいは世間のあらゆる「価値」を、「生の自分」との関連の中で序列付ける資格が自分にあると思う心の傾向が「悪しきプライド」ということになろうか。

 

 こんな当たり前のことを書き連ねているのは、どうも厄介な「悪しきプライド」の持ち主と、時間限定とはいえ、交渉を持たねばならないからである。

 この方とは既にある程度交渉があるのだが、とにかく困ったことばかり(詳細は避ける)。あまりに問題が多く、ついに先日、第三者の立ち合いのもと、先方の問題点をすべて相手に対して申し立てた。第三者もこちらの申し立てを認め(認めざるを得なかった)、先方の全面的な謝罪とあいなった。世間で言う「十ゼロ」である(こういう表記で合っているかしら?)。

 

 ところが、その後も先方は変わらないのである。折に触れ、「この点を直してください」とお願いしても、「はい、わかりました」と返事はしつつ、のらくらとやりすごしている。驚くばかりである。第三者の立ち合いのもとで私のあそこまでやられたのに、その際指摘された問題点を改善しないのである。まあ、私のことをバカにしているのだろうな、とは思う(もっとも、言葉を選ばずに言うと、このような方にバカにされてもなんとも思いはしない―すごい人だな、とは思うけれど)。

 

 もっともこんな私の愚痴を皆さんにお読みいただいても仕方がないので、もう少し一般的な考察に繋げたい。

 体感でしかないが、こうした人、即ち「悪しきプライド」の持ち主は増えていると思う。仮にこの感覚が正しいのだとすれば、なぜこうした増加が見られるのだろうか? 恐らく真っ先にやり玉にあがるのは、「教育」であろう。もちろんここに問題がないとは言わない。しかし、より大きく影響しているのは、親子関係ではないだろうか。

 端的に言うと、問題の根の一つは、「親であること」をそのまま「親子関係において子どもを従わせる根拠」にする人々にあるように思う。こうしたタイプの人間というのは、比較的容易に思いつくだろう(私自身も、この傾向を完全に免れているとは言えない)。「親は親であるがゆえに、言う事を聞いた方がよい」という命題が全く無意味であるとは言わない。しかし、この命題が成り立つのは、件の「親」が、自分以外の価値に身を捧げている姿勢を見せているときではないだろうか。そのような姿勢を持っている親が、ともすれが自己中心がちになりがちな時もある子どもに対して「自分以外の価値に身を捧げている姿を見なさい、わからなくても見ていなさい、この親の姿を見ていなさい」というのならわかる。

 しかし、世の多くの「親であること」をそのまま価値にする人は、実質的に「生の自分」を価値としているように見えてしまう。そして、「だらしない自分」や「自分勝手な自分」、「他人に配慮しない自分」といったものに対して子どもが鋭い批判を向けてきたときに、「子どもは黙っていなさい」、「親の言うことは黙って聞きなさい」という言葉を発しているように見える。

 そうした親に育てられた子どものうちの少なからぬ子は、「親であることを価値とする心の構え」の背後にある、「生の自分であることをむき出しの形で肯定する心の構え」を敏感に感じ取り、それを模倣していってはいないだろうか。私の見るところでは、かくして、「生の自分」を〈神〉とする心の構えが出来上がる。

 こうした人には何を言っても届かない。たとえ万座でその問題点を痛罵されようと、何も応えない。なぜならその人にとっては、「生の自分を否定する価値」は、端的に「価値」ではないからだ。

 僻目だろうか? そうであってほしい。

 しかし、体感だが関じずにはいられない過剰な自己肯定の蔓延の背後には、「親であること」をそれだけで「価値」とする姿勢があるようにも思う。実際のところ、家庭における、子どもに対しての親の姿勢、特にその心理的な姿勢を指導することは、法的にも道徳的にも難しい。

 とはいえ、「親であること」はそれだけでは価値を持たぬこと、「親であること」とは、「何かしら自分以外の事柄」に身を捧げる姿勢を子どもに見せる中で、徐々に熟成されていくのだという認識は、緩やかに共有されてほしいとも思う。

 もちろんここまで書いたことは、一人の親としてのわが身の反省でもある。

 

M&M's

 

※ 相変わらず遅れて、10月4日(火)に書いています。