先々への宿題

 いつも同じ言い訳で恥ずかしいのだが、なかなかゆっくりと文章を考える時間をとることができない(だからこの記事も、遅れに遅れて9月27日に書いている)。しかも、こんな時に限って、重々しいテーマが浮かぶ。とある小説をぜひ論じてみたいという思いに、切実に捉われているのだ。

 件の書は、ブッツァーティの『タタール人の砂漠』(岩波文庫)。

 この年になるまで存在を知らなかった。半年ほど前、とある仕事がきっかけでジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』を読み、いわばその「元ネタ」としてこの小説を知ったのだが、なんとなく手に取りページを繰るや、疾風に運ばれるごとく一挙に通読した。

 

 人にこの書を勧めるための言葉は、「取りて、読め」しかない。

 アウグスティヌスがその回心への決定的な場面で耳にした言葉をここで引くことを、大袈裟ととる人もいるかもしれない。しかし、他の言葉は思い浮かばない。

 

 私は人生の半ば、あるいは老いを迎えつつこの年に、この書を読み、そして打ちのめされた。鬱々とした気分になったことも否定はしない。しかし、それでも、読んでよかったと思う。自分の生を虚像のもとで理解し、偽りの楽観主義で生きていくよりは、この書物が突き付けてくる〈生〉のあり方を、そして自分がそうした〈生〉を送っていることを直視した方がよいだろう。

 若い人は若い人なりに打ちのめされるかもしれない。しかしそれでも、いや、やはり、それだからこそ、手にとって読んでほしいと思う。

 

 この書物を巡るもう少し思いを深めることを、自分自身への宿題とする。いつの日か、この記事に、「追記」という形で、そうした思いを記すこととしたい。

 

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