小学校教員の「病」

 以下述べることがすべての小学校教員に当てはまるとは言わないし思わない。しかし、それでも、小学校の教員であること付随する構造的な「病」、つまりすべての小学校教員が罹る危険のある「病」があると思う(以下記すことは個人的な体験にも基づくものであり、その意味で「意趣返し」の面があることは否定できないが、それでも、普遍的な意味、建設的な意味があるようには心掛けたつもりだ)。

 

 小学校の教員であることの「構造的な」「病」とは何か?

 第一の、そして恐らく最大の問題は、「自分は良い教師である」という自意識が高められがちな環境に彼ら・彼女らが常にいることではないか。多くの小学生はまだ幼く、適切な批判を教員に向けることができない。ストックホルム症候群ではないが、教員を半ば肯定しなければ危険なことも、本能的に察知しているだろう。また、保護者は、自分の子どもを「人質」に取られているとも言いうる状況にあるから、簡単には教師を批判できない。どちらかと言えば、「ありがとうございます」「感謝しています」という言葉が増える。これが当然の構造だ。小学校の教師が「私は批判をしっかりと受け入れます」と言ったとしても、おいそれと批判はできない。それが客観的な事実だ。だから、小学校の教員が長年にわたり批判を受けることなく、教室において「(女)王様」として君臨することも十分にありうる(もちろん、大半の教師はそうではない―私は「可能性」とそうした「可能性」を生む「構造」の話をしている)。

 しかるに恐るべきは、少なからぬ教師が、「自分たちが批判されないのは、自分が良い教師だからだ」と信じることだ(これはある意味、普遍的な人間的現象だ)。「そんなことはないだろう」と思うかもしれないが、私が見る限り、少なからぬ教員がこの「病」に罹っている。自分への評価があくまで教室における構造に由来することを知らずして、ナルシシズムに陥るのだ。「汝自身を知れ」と彼ら・彼女らは生徒に言うだろう。しかし、彼ら・彼女らは「己自身を知らない」。

 第二の「病」として、自分が子どものことをわかっている、という思いを抱きがちな点が挙げられる。もちろん実際に「わかっている場合」も多いだろう。しかし、そうでない場合も多い。ここで問題となるのは、「わかっている場合」が多いがゆえに、本当はわかっていないにも関わらず、「自分は子供の気持ちがわかっている」と思い込んでしまうことだ。小学校5年生、6年生となれば、相当に知能の高い子もいる。大人のずるさを見透かし、冷ややかに眺め、あるいは内心不快に思う子どもも数多くいる(なお、小学校高学年の時の私自身は、担任に恵まれたのでそうした思いをせずに済んだが、とある別の社会集団で、大人の「偽善」を冷ややかに見ていた)。しかし少なからぬ教師は、件の生徒を「自分にとってわかりやすい子ども」のタイプに落とし込むばかりで、そうした知能の高い児童の眼差しや心のあり方を見抜くことができない(あるいは、それを「子どもらしくない」と言って否定する)。

 また、第三の、そして今日挙げる最後の病として、「がんばっている」ことに過剰な価値を置くというものがある。「色々とありますが、がんばっているのです」と言うのだ。知った事か、と思う。重要な問題を解決できなかった人間は沈黙するか謝罪をするにとどめるのが倫理だろう。この倫理を守れぬ小学校の教師がいる原因は、やはり「小学校」という場の構造にあるのではないか。「がんばっている」というのは、小学生や中学生を評価する場合には、重要な指標だ。結果を出せない子どもに、「まずはがんばったからいいじゃないか」と励ましの言葉をかけることには意味がある。私もこの用法には賛成する。しかし、「がんばっている」というのは、他者を赦すために用いる言葉であり、自分を赦してもらうために用いる用語ではない。大人の世界では通用しない言葉だ。しかし小学校の教員は、子どもにしばしばこの言葉をかけるがゆえに、そうした言葉を自分に用いてもよいと思うに至るのではないか?

 最近、小学校の教師が、当然果たすべき任務を果たせなかった際に、「がんばっているのです、時間を使ったのです」という言葉を発する現場に複数回居合わせた。恥を知るが良い、と心から思う。

 

 私から言わせれば、今あげた三つだけでも相当の悪徳である。しかし、小学校という場においては、この悪徳が自覚されることは少ないように思う。自分たちが生徒や保護者を抑圧し、言葉を奪っている可能性に思いを致さぬ教師たちよ、呪われてあれ。しかしこんな言葉をここで吠えたところで、自分たちが「良い先生」であると思っている彼ら・彼女らには届かないだろう。

 とはいえ、心ある小学校の先生方が上に述べた構造的病 -残念だが、私はこの構造的病の指摘が適切であることを、多くの証拠に基づいて、確信している- を自覚の上、教育の現場からこうした「病」を減らす努力をしてくだされば、とも夢想する。教育の改善は、役所や教育委員会の標語などからではなく、こうした、自分たちのうちに構造的に発生しがちな悪徳を真に自覚することから始まるのではないだろうか。

 

M&M's

 

追記:繰り返しになりますが、すべての先生が深くこの病に罹っている、とは言いません。しかし遠慮なく言えば、この病に罹患する危険はすべての教員にあると思います。なお、中学・高校・大学の教員にも同様の「病」はありますが、ただし、生徒・学生の批判能力が増していくので、これらのタイプの病が「むき出しで」出ることは少ないように思います。もっとも、それぞれの場所で、別の「構造的病」はあるでしょうし、それを自覚する営みは重要でしょう。