「今救えるのは、宇宙で私だけ」

 黒田硫黄の名作漫画、『セクシーボイスアンドロボ』の第1巻(しかし、この漫画、再開してくれませんかね? 無理でしょうけれど・・・)で、少年の誘拐事件の解決のために犯人と思しき人物とコンタクトをとるという危険な賭けに一人で出ようとし、主人公林二湖は、自分にこう言い聞かせる。

 

「今見つけて今追わないと逃がしちゃう。私の耳が、私だけが見つけたんだもの。わたるくんのいるところ。知らない子だけど。今救えるのは、宇宙で私だけ。」(同書p.25)

 

 彼女のそれほど劇的なものではないにせよ、私たちもごく稀にだが、そこに居合わせることだけで誰かの役に立つことがある。
 正確を期すならば、彼女はその超人的な聴覚を用いて上の状況に至るが、今私が話題にしたいのは、何らのとりえのない「私」がそこに居合わせるだけで誰かの役に立つような状況だ。この違いは脇に措いてください。

 私の場合、二十五年ほど前か、山道の散歩中偶々であった認知症気味の女性をご家族のもとにお連れできた、というのが、そうした経験のうちで最も心に残る(2018年3月9日「一番怖かったこと」をご覧ください)。
 先日も、そこまで劇的ではないが、これに類した経験があった。
 私の職場は、夜ある時刻になると入り口が施錠され外からは入れなくなる。先日、その時刻を少しすぎ、帰宅しようと出入口を開くと、私より少し年上らしき女性が不安げに立っており、目が合うと「すいません、Xの妻なのですが、職場の電話も携帯電話もつながらず心配で」とおっしゃる。Xさんが倒れていらっしゃるのではないか、と心配で直接ここまでいらしたわけだ。やや大きい職場だが、Xさんは私の直接の知人である(これはラッキーであった)。彼は私より少し年長だが、確かに私たちの年代は、多くはないとはいえそうしたことがあってもおかしくない年だ。私も心配になり、「ご一緒しましょう」と、すぐにXさんのオフィスに向かった。
 オフィスは、灯りはついているがノックをしても反応がない。奥さまは当然不安そうだ。当然私も心配になる。これは守衛さんに事情を話して鍵をあけてもらうしかないか、もしかしたら長い夜になるかもしれない、と覚悟を決めようとした、とその時、思い出した。Xさんは最近仕事の関係で、別の部署のYさんとよく話している。そういえば、Yさんの部署はまだ灯りがついているではないか、というわけで、そちらに向かいノックしてみると、「は~い」とYさんの返事。「M&M'sです、遅くにすいません、ちょっと」と言うとYさんがすぐに扉を開けてくださる。「あれ、どうしたの」と言うYさんの背中越しに、「なんじゃらほい」という風情で間抜け面をしている(失礼!)Xさんがいた! 「いや、すいません、Xさん、ちょっと廊下へ」と言って促し、奥さまと引き合わせると、最初は彼女が誰かわからず、「はあ、おつかれさまです」とか言っている。マスクのためと、よもやここにいるとは思っていない、というわけで、奥さまとわからないのだ。「も~う、私よ」とマスクを外しながら怒っているような泣いているような、笑っているような表情をする彼女に、Xさん、「あれ~、どうしたの」と相変わらず間抜けな(再び失礼!)ことを言っている。「携帯電話も全然繋がらないないから、本当に心配したのよ」という言葉にはた、と合点がいったのか、「ああ、机に置いてきちゃった、そうか心配したよね、ごめんごめん」とようやく適切な言葉を発せられた。ついで、奥さまが「こちらの方があなたのことを知っていて付き添ってくださったの」と言うと、「そうか、M&M'sさん、ごめんごめん、ありがとう」とちょっとぐっときていた私に抱きつこうとしたので、さすがにそれは"Social distance!"といって軽く押し返しましたが(笑)。

 

 この件、別に私がその場にいなくても、ある程度時間が経てば解決したことでしょう。ただ、奥さまが心配する時間を大いに短縮したとは言ってよいのでは(なお、奥さまはお父上が一人の時に倒れたことがあるとのことで、幸い一命はとりとめられたとのことですが、以後、そうしたことを大変心配していらっしゃるとのことでした)。
 後から振り返った時に、こんなふうに考えた。私は多分、かなり役に立ったと言ってよいと思うが、ただし、そのためには私が道徳的に優れた人間である必要は全くなかった。ただその場に居合わせること、そして救いを求める手をとりさえすればよかったのだ。しかも、その手をとることはさしたる労力を要しない。「今救えるのは、宇宙で私だけ」とまでは言わないが、「今役に立てるのは私しかいない」とは言える状況で、しかるべく振る舞えばよい。
 人生には時々、そうした偶然の巡り合わせで人の役に立つことがある。そうした時、要求されるのはごく普通の親切心といった程度のものだけで、何ら特別な道徳心は必要とされない。だから、こうした行いは、優れた道徳的行動に時に伴う、ナルシシズムが働いているのではないか、という自己懐疑を呼び起こすことがない。妙な言い方だが、その場に居合わせそうした行動を行うことができてよかった、誰もが行うようなささやかな親切を自分も行うことができてよかった、という、言うならば謙虚な道徳的満足(道徳的幸福感?)だけが生じるように思う。
 こうした「巡り合わせによる親切」を行うことは、人間の道徳心理という観点から見て非常に面白いテーマではないか、あるいは人間の道徳的成長においてもしかしたらとても大切なものなのではないか、と思う。これ以上うまく展開する力はないのだが、何か大切な事柄の近くにいるような気がするので、書き記しておく次第。
 みなさんには、「今救えるのは、宇宙で私だけ」といった経験はありますか? あるいはそこまでいかないにしても、心に残る「巡り合わせによる親切」の思い出はあるでしょうか?

 

M&M's