環境としての、自分の延長としての母親

発表が終わりました。4月なかごろからちょいちょい勉強をはじめ、5月始めくらいからストーリーの素描をくりかえして、直前一週間にすごくがんばるという形で仕上げました。子どもがいると、ものを書くのに使える時間は限られていてちょっと大変でしたが、遊んでいる娘のとなりで呆然としながら考えを巡らせるのは、やれなくはないらしいと分かりました。

 さて、普段の娘はといいますと、母親(私)より父親のほうが大好きです。私は彼女の日常の世話をよくするのに対して、夫は散歩に連れ出したり、お風呂のあとに遊んだり、と娘にとってちょっと楽しいことをよくしているのが影響しているのだと思います。最近は、夫のそばで遊んでいる娘に声をかけると、首をふりふり「いやいや」的な音を出します。声かけただけなのに。。。まあ、私が呼ぶときは、お風呂にいれられたり、おむつかえられたり、はみがきされたり、そんなんばっかだからだね。

 という普段の娘の様子から、発表準備に忙しい間くらいは、仕事に集中しても大丈夫だろうと思っていたのです。そいで、最低限の世話はしつつ、彼女のことを意識の中心からしばらく外にだしていました。

発表が終わるまでは気がつかなかったのですが、特に切羽詰っていた発表の前後3日間、娘はずいぶん荒れていたようです。娘が遊んでほしいのは父親なので、娘は父(夫)のところに行って遊んでとせがむのですが、彼が何をしても喜ばずにつぎつぎと違うことをやってと要求してきたそうです。そして結局満足せず、ぐずぐずになってうえーんと泣いたりしていたそうです。発表の翌日も、私はまだ考えの海にもぐったまま帰ってこないため、娘のことが見えておらず、同じ状態が続いたそうです。(私、集中しちゃうとこういうことがぜんぜん見えなくなるので、あとで聞いてびっくりしました)

発表の翌々日、娘がいる日常の世界にもどってきてみたら、昨日までのぐずぐずが嘘のように(とは夫談)、娘はにこにこしてきゃっきゃと一人で遊びだしています。私が見えなくなるとすぐ探しに来ますが、基本的にごきげんな様子。これは、私の注意がちゃんと娘に戻ったせいなのか。二三日すると娘のなかの何かが充電されたのか、また以前のように、父親に遊んでほしがり、私が近づくと「いやいや」をするようになりました。

 

夫「こけぐまさん、いつもMちゃんとぐうたらしてるだけと思ってたけど、なんかちゃんと大事な仕事してたんだね!」

こけぐま「そうみたいで私もびっくり。私、基本的なお世話しかしないし、Mちゃんはあなたのほうが好きなんだと理解していたので、私の状態がこんなに影響するなんてねえ!」

 

娘にとって父親はおもちゃの一種、遊び相手でextraの喜びをくれる人。一方母親は環境で、そして自分自身の延長なんじゃないかな。小さい子が健康な自分の体のことを気にかけたり労わったりしないのと同じ感じに、私のことはあって当然だけど、あるから嬉しい!ってなるものではないような気がします。でも、ないことは大きな問題になるんだな。でも、ちょっとした私の状態の変化が、彼女にこんなに影響するなんて、驚きでした。

一歳の赤ちゃんでもすでに非常に社会的に出来ているんだなーと感じる出来事でした。実際、世話してくれる大人がいなくなることは死活問題だから、脳のリソースのかなりの部分が社会性に割かれているように感じます。サンプル数1の印象だけど。

 

こけぐま