筆記体について思うこと

 過去の自分の恥ずかしい経験を書き続けるのにも飽きてきたので、少し違う話題について書きたい。昔から気になっていることの一つで、なぜ学校で筆記体を習わなくなったのか、ということ。

 事実としては、二十年ほど前に学習指導要領において筆記体の学習が義務ではなくなり、今の中学や高校の生徒、大学生の多くは筆記体を読むことができない。もちろん、書くこともできない人が多い。

 私はこの点には、当初から疑念を抱いていた。当時はこうなった事情として、IT化の進展や、筆記体を読む機会の減少が挙げられていたと思う。それはそれで納得できるが、「書く」という一点に絞れば筆記体の優位は動かないと思うからだ。英語なり他の外国語のアルファベットなりの文章を実際に書写するとわかるが、ブロック体と筆記体では、スピードに相当の差が出る。体感だが三倍くらいは違うのではないだろうか? また、ブロック体の場合、なんとなくもどかしくなってしまい、書写自体が嫌になるように思う。逆に、筆記体での書写にはスポーツ的な快感がある。

 外国語の学習において、テキストを実際に書くという作業が重要であるならば -私はそれを確信しているが- 筆記体はやはり教えたほうが良いのではないだろうか? たかだが授業時間に数時間を用いることで、それから後の十年間ほどの英語をメインとした外国語学習の効率が変わってくるなら、効率という観点からも筆記体を教えたほうが良いのではなかろうか?

 この記事を書くにあたり、少し検索をかけてみると、他のもう少し強い筆記体「反対論」(?)に、テストなどで採点しにくい、教師の筆記体の文字が汚く学習に支障をきたす、といったものがあった。なるほど、無視はできないものだけれど、解決は不可能ではなかろう。テストでは「解答は明瞭なブロック体で記してください」と注記すればよいし、後者については、教師自身の自覚に頼る部分があるが、生徒や学生に確認をとりつつ、ブロック体を併用するなどの手がある(教員はちょっとプライドが傷つくかもしれないけれど、生徒、学生の学習効率を優先、ということで)。私自身の観点からすると、反対論には考慮すべきものがあるけれど、アルファベットを用いる外国語の学習を著しく効率的にする筆記体の学習は、やはり復活させたほうが良いように思う。単純な話だけれど、皆さん、外国語の単語を見ているだけで覚えられますか? 私は無理だ。やはり何度かは書くようにする。人生の中でその繰り返しは結構な時間となるので、筆記体でそうした時間が節約できる(できた)点もありがたい。

 もう一つ気になるのは、もしかしたらこの点が外国語能力の格差を生んでいないか、という点。あくまで体感で、これはもう統計的資料はないのだが、若い方でも外国語のできる方には筆記体のできる人が多いように思う。上の「効率」という観点からすれば、そのようになっていたとしても不思議はない。筆記体が外国語への扉をより開いてくれる可能性を持つのは、これを義務教育で教えることは、まさに大人の側の「義務」ではないかしら、などとも思う。

 この手の問題として、自分の経験を一般化している危険はあると思います(私は、外国語学習の基本は書写と暗唱にあり、と、多少頑固なまでに思っているので)。とはいえ、認知科学的手法を用いるなど、様々な観点から、筆記体による書写の優位性を証明できないだろうか、などと夢想するところです。もちろん、逆の結果が出たら、この議論はおとなしく引っ込めることといたします。

 

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