『徒然草』第一八八段

 子どもと素読めいたことをすることが好きです。ここ最近、子どもはいやがり反抗するようになったのですが、半ば無理やりそうした時間を作るようにしています。日本語なり英語なりのリズムを子どもが自分の身体に刻み込むことの大切さを深く信じているから、というのが理由ですが、自分自身の勉強になるから、というのも大きい。

 英語の文章について言えば、子ども向けの本というのは時に難しいところがあり、なぜこうした言い回しをするのだろうか、と問うてみると、なかなか奥深いところがあります。また、語彙も時々意表をつく難しいものがあり、良い勉強になります。

 日本語の文章について言えば、若いころに読まぬままにしてしまった文章に、子どもの教育を機会に自分でも触れておきたいという気持ちが強くあります。さわりの部分だけ知っている名文というのは数多いですが、それらを少しでも読み進めよう、というわけです。

 そうして選ぶ日本語の文章の中に『徒然草』があります。もともと好きなタイプの文章ですので、高校時代にパラパラ読み、その後もたまに拾い読みなどはしてきました。とはいえ通読はしていない。だから、自分の読んでいないと思われる段を選び、子どもと一緒に素読するわけです。

 しかし『徒然草』の文章は容赦ないですね。私の子どもはただ声に出して読んでいるわけですが ―それでも何かが残ってくれればとは思いますがー、大人である私には、胸を突かれる思いがする文章が多い。そんな一つに第一八八段があります。まだ全段に目を通してはいないので断言はできませんが、中年の境にあるものに残酷な真実を告げる、という文章としては、最も厳しいものと言えるのではないでしょうか。

 

 話自体は単純です。一つのことに打ち込む大切さ、そして打ち込むことを決めたら、ほんのわずかでもその利益となることを選び続けることの大切さを言う文章です。それ自体は良い。しかし、それを守れぬ人間に対する兼好法師の筆はやはり容赦ないように思うのです。

 例えば、若いうちは色々と望みを立てるものだが、なんとなく時間もあるように思ってすごしているうちに、どれも成し遂げることなく年を取ってしまう(「ことごと成す事なくして、身は老いぬ」)と述べた後の文章がこうです。「終(つい)に物の上手にもならず、思ひやうに身をも持たず、悔ゆれども取り返さるる齢ならねば、走りて坂を下る輪のごとくに衰へゆく。」

 最初に声に出して読み、「走りて坂を下る輪のごとくに衰へゆく」というくだりに突き当たった時には、なんともいえぬ辛い思いがしました。まさに自分のことを言われているように思ったからです。ここまで言うか、とも。確証はないですが、あるいは兼好法師はこの言葉をまずは自分に向けたのであり、だからこそこれこそ厳しい言葉を発したのかもしれません。しかし、この言葉が私自身にも当てはまることは変わりありません。

 あるいは、常に自分の進む道の利益になることをしっかりと選び取るようにと勧める箇所での、「是をも捨てず、かれをも取らんと思ふ心に、かれをも得ず、是をも失ふべき道なり」という箇所は、ついつい「あれもこれも」と思ってしまう私には、いたく厳しく響くものでした。

 もちろん今の自分のあり方を肯定することは大切なことでしょう。しかし、「ことごと成す事なくして」齢を重ねてきた自分のあり方を見据え続けることも、生きていく上ではやはり欠かせぬことと思います。あえて言えば、そうした姿勢があるからこそ「張り」のある人生を送ることがあるとも言える。

 その思いを忘れてはならじ、と、ここ数日は第一八八段ばかり朗読しています。娘は「長い」と言っていやがるばかりですが、もしかしたら数十年後、彼女自身も何かしらの感慨と共にこの段と再会することがあるかもしれません。

 さて、私自身に戻れば、こんな、道学者めいた、あるいはお説教じみたとも言えることを今日ここに記したのは、先々このことを思い返したいからであります。そして、そうしてこの思いを取り戻すことで、「ことごと成す事なくして」齢を重ねていく人生に多少なりとも「張り」を与えたいと思ったのです。そのためには、こうした厳しい残酷な言葉をわが心に刻み込むことも大切なこと、と思った次第でした。

 

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