あのブドウは酸っぱい

 「あのブドウは酸っぱい」というのは、とあるイソップ寓話の中で、どうやっても欲しいブドウを手に入れられなかったキツネが最後に言い放つ言葉。通常、負け惜しみのこととされるらしい。

 もっとも、生きていく場合にはしばしば「あのブドウは酸っぱい」に近い言葉を自分に言い聞かせなければならないときもある。どうやっても手に入らないものをあれこれ言っても仕方がない。どこかで思い切って諦めるときに、「あのブドウは酸っぱい」に類した言葉を意識的に自分に言い聞かせることは、人生の重要な技法に数えても良いほどだろう。

 とはいえ、「あのブドウは酸っぱい」という言葉には、確かに「負け惜しみ」めくというか、どこか卑しさを連想させるところがある。これは、手に入れられなかったものの価値を無理やり下げるからだろう。諦めるために、入手できなかったものの価値を否定することはない。一度は手に入れようとしたものについて、その価値をわざわざ否定するならば、それはそれで心に妙な負荷をかけることになるかもしれない。入手できず断念するべきものの価値はそのまま認めつつ、そのものとの自分の関係は、実現が難しいものであったと見なしたり、あるいは入手できたとしても長続きはしなかったのだろう、などと見切る姿勢が望まれるように思う。

 その意味では、恋愛などで用いられる「ご縁がなかった」という言い回しは悪くないように思う。何かしらのことがきっかけで別れた恋愛の相手を悪しざまに言うことは、よほど親密性の支配する場でない限り、仮にその指摘が事実であろうと、できれば控えたいところだ。そんなふうに考えると、「ご縁がなかった」という言い方は、色々な人の気持ちを穏やかに守りつつ、事態を次のステップに進めてくれるような気がしてくる。あるいは、「あのまま付き合い続けても、どこかでうまくいかなくなっていたような気がする」というのは、相手のことを悪く言うことなしに、事態を受け入れる心構えを育ててくれるようにも思う。

 これらもまた「負け惜しみ」の部分は含むのだが、相手の価値を否定しないだけ、ずいぶんとましな感じがする。少なくとも下卑た印象は与えない。

 「あのブドウは酸っぱい」と言いたくなることも相変わらず時にあるけれど、そうした時は、「あのブドウとはご縁がなかったんだね」とわが身に言い聞かせるようにしたいものだ。

 

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