自分がわからない

少し前、こけさんとzoomを始めたのがきっかけで、「他者と会話したい」欲が高まっていた。

そのままの勢いでSNSでやりとりしてた二人とzoomをやってみた。

楽しかったです。

「会話するってこんなに楽しかったんだな!」という想いが大きくて、終了した時点では多幸感で一杯でした。

ただ、そこで気力も使い切ったのか、次に来たのは不安感です。

「自分は楽しかったけれど相手は私の事をどう思っただろうか?」「また誘ってください」と言われたけど、それは社交辞令ではないのか?

「私は薄っぺらな人間で、相手に何も与える事は出来ないのでは?」などなど。

こけさんとしたzoomでは湧いてこない感情がむくむくと頭をもたげてきました。

(こけさんには思いっきり駄目人間な所をみられているし、知って貰っているので、そういう見栄みたいなことは考えないんだと思います。)

そうなったらもう駄目です。

不安と疑念と自己嫌悪がどんどん増していきます。

鬱から来るものなのか。

それとも元々の自分が自信の無い人間だからこうなってしまうのか。

多分二つから来ているとは思うのですが、とにかく人から見たらバカげた問題でそんなに深く考える事はないのでは?と思われると思います。

妹もそう言ってました。

私もそう思います。

自分の感情すら正確に把握できないのに、他人のそれなんてもっと理解できない。

なのに、私はそれを考えて勝手に悲しくなったり不安になったりしてる。

滑稽ですよね。

自分でもそう思います。

でも、囚われてしまうとそれだけになってぐるぐるとその考えばかりしてしまうのです。

困ったものです。

今回は、とにかく他者と接しない事を心がけて、自分はどうしたいのかに集中しました。

私は人から面白い人、交友を続けていきたいと思って欲しいんだなと結論を出しました。

でも、それは私ではなくて他者が下す結論です。

私にはどうしようも出来ない事柄です。

じゃあ、何が私には出来るのか?

中身のない、薄っぺらな自分には何が出来るんだろうか?

出てきた答えは……

「誠実にあるほかない」

「人にも自分にも誠実であるしか方法は無い」

でした。

自分を大きく見せようとすれば綻びが出ます。

その場は取り繕えてもいずれは破綻します。

中身のない、薄っぺらな人間でも、正直にいることは出来る。

それしかないのじゃないか?

自分に誠実であれば、過去を振り返っても後悔はしないでしょう。

相手に誠実であれば、交友が続かなくなっても自分が駄目人間だからではなく「合わなかったんだな」と納得が出来ると思う。

それしか出来ないのじゃないだろうか……。

 

自分に自信を持つってどういうことなんでしょうね?

私にはそれがずっと判らないでいる。

人それぞれに違うものなんでしょうか?

どういう形であれ、それを受け入れて生きていかないとなんだろうなと。

そこだけは判ってはいるんですけどね。

なかなか等身大の自分を知り受け入れるって難しいです。

 

そんな事をずっと考えていた一週間でした。

そうそう、悶々としていた時に、部屋の片づけを平行して行っていました。

余り足に負担はかけられないので5分とか長くても10分。

それ以上の時間だと足が震えてきちゃって駄目なのです。

(そして回復には最低でも2時間横になっていないと足の痛みは取れません。)

それを繰り返していました。

みじかい時間なので、余り進んだとは言えないのですが、でも塵も積もればで部屋の三分の一は綺麗に出来ました。(当社比)

10月までには机を移動して、寝床も将来ベッドを置く予定の所に移動出来ればと考えています。

机はあるのに椅子はないという現状なので、椅子もどうにかしてお迎えしたいものです。

片付けをしている間だけは、考え事が中断されるので助かりました。

部屋の混沌は精神に繋がるってどこかで読んだ覚えがあるのですが、本当かな?

それだと私の部屋と精神は密接につながっていると言えるでしょう。

それがこうして片付けを開始しているのですから、いずれは精神も平穏を得られるのかな?だといいな……。

 

ではでは、少しは元気になっていることを願ってまた来週です!

 

aberina