翻訳の功徳

(※遅れに遅れて、9月21日に書いています)

 

 本来文章を書くべきだった9月15日は、早世した友人Hさんの誕生日だった。これをきっかけに何か記してみたいと逡巡するうちに時間が過ぎてしまった。書きたいことがないわけではないが -むしろ、たくさんあるのだが- 気持ちがうまく文章に落ち着いていかない。と言うわけで、別の話。

 

 最近禁酒をしていることもあってか、体調がよい(9月8日(金)から呑んでいません)。加えて、先週も少し触れた翻訳に集中しているためか、心理的にも安定している。昔からの経験則でわかっているのだが、適度に外国語に接する作業は、精神的に良い影響を及ぼしてくれる。

 なぜだろうか?

 作業工程が決まっている点は大きいだろう。仕事においてストレスとなる一因は、「何をしてはいいか、わからない」という状況ではないか。翻訳の場合は、そうしたことは少ない。いや、正確に言えばあるけれど、そうした問題が出てくるのは、相当に高次の次元だと思う。通常であれば、「どうしよう」と問いかけるまでもなく、目の前の文章を読めばよい。わからない単語があれば、辞書を引けばよい。悩ましい文法事項があれば、文法書を繙けばよい。どうしてもわからなければ、ペンディングとして、先に進めばよい。後になって解決することも多いことは経験則で分かっているから、当該の箇所に問題点や可能な解釈などを書き込んでおけば、後で振り返るときのよすがになる。

 作業を進めるにあたって、心を惑わす事態が少ないこともあろう。よかれあしかれ外国語は、母語と違って、心にダイレクトに働きかけてくる度合いが弱い。言いたいことは次のこと。失恋した直後に日本語で失恋を扱う小説を読める人はいるだろうか? 私は無理だ。辛い経験を連想させる言葉(具体例は恥ずかしいので挙げない)と出会うだけで心波たち、もう先に進むことができない。そもそもこうした状況にあると、直接自身の経験とは関わらなくても、辛さを喚起する言葉であれば、どんな片言隻句ですら心を波立たせる。しかし、外国語であれば同じことができてしまう。うまく言えないけれど、言葉を「理論的な」(?)意味の水準で受け止めていて、心情の部分にダイレクトに受け止めるようにはできていないのだろう(それは自分の外国語力の不足という問題とも繋がるが、今は措く)。

 また、翻訳という作業は、それなりに創造的なところもある。原文を尊重しつつ、日本語としての文意が通るように、構文を変え単語を探す作業には、「ものづくり」に相通じる喜びがある。

 

 翻訳に携わったことのある方には当たり前のことばかり書き連ねてしまい申し訳ない。とはいえ、自分の生活が乱れ気味の時には、禁酒をし翻訳に取り組むのが、自分の生活のリズムを取り戻すための有効な手段の一つであるようなので、後々のために、ここに書き記しておきたい。

 

 なお、余談ですが、今翻訳しているものの一つ(今、二つの翻訳に関わっています)が、「今生きてあることを受け入れて喜ぶこと」の大切さを説くものです。もとは外国語による他人の言葉とはいえ、こうした概念を日本語に移していくと、この概念が自分の心にしみこんでいくのがわかり、心地よい。

 

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