便利になって失ったもの?

 ここ20年ほどの情報化の爆発的な進展で、20世紀とは大きく変わったことはいくつもある。私にとって(そして私以外の多くの人にとっても)大きい事柄としては、YouTubeの発展によって、「知らない曲」というのが減ったことがあろう。もう少し正確に言うと、「名前」はわかるが、どんな曲かわからない、といったものは、徹底的に減ったはずだ。

 わかりやすいものとしては、懐メロがある。日本の近代史の本などを読んでいて、「大正時代にこれこれの歌が流行った」などといった記述と出会ったとき、今であれば、ほぼYouTubeで件の歌を見つけることができる。私と同世代の人はわかってくださるが、以前はそうではなかった。どうしても件の歌を知りたければ、大正時代の流行歌のCDなどをあれこれ探さねばならなかった。しかも、それで出会えるとは必ずしも限らなかったのだ。

 個人的には、なかなか出会えなかった曲が二つある。一つは、ベルリオーズの「皇帝賛歌」、もう一つは「シリアに旅立ちながら」という曲。いずれも、「ラ・マルセイエーズ」の歴史を調べている時にその存在を知ったのだが、20年ほど前は、あれこれCDを探しても、全く聴くことができなかった。どんな曲か、飢餓感が募るばかりであった(嘘)。

 しかし、現在であれば、YouTubeに曲名を打ち込めば、どちらもすぐに聴くことができる。驚くばかりだ。いや、若い人は、驚くこともないのだろう。

 

 しかし、良いことばかりなのだろうか。

 私たちは若いころ、音源はないが楽譜はある、といった曲とたまに出会うことがあった。そうすると、友人同士で合奏したり、ピアノで音を確かめたりしながら、徐々にその曲のイメージを作り上げていく、という、地道と言えば地道な作業をすることもあった。面はゆいが、そうした作業は、読譜力を高めてくれたように思う。今そうした作業をする人はいないだろう。新しい曲の楽譜を渡された人はすぐにYouTubeで件の曲の響きを確かめることができる。この「お手軽さ」は、便利であると同時に、どこかしら、地道に読譜をしていくという作業を失わせているようにも思う。

 

 もっともそうではないのかもしれない。もしも新しく聴く曲をしっかりと楽譜を見ながら聴くのであれば、そして、そうした経験を日々重ねていくのであれば、私たちのような時間のかかる作業をしなくても、読譜力は上がっていくのかもしれない。私自身としては、昔友人たちと行った「響きを確かめていく」という営みに郷愁を感じるのだが、時代の流れを変えようがない以上、むしろ、そうした「お手軽さ」が結果的に人々(特に若い人)の読譜力を養成していくという方向を信じたほうが良いのかもしれない。

 これと類似の問題は、多くの領域にあるような気がする。

 

M&M's

(10月5日記)

 

追記:日々の忙しさは変わらず、なかなかこちらを書く時間が取れません・・・