ノーベル文学賞に翻弄される

 10月5日(木)はノーベル文学賞受賞者の発表であった。

 昨年、その受賞をきっかけにアニー・エルノーの作品を集中して読んだこと、この春に大江健三郎が亡くなったこともあってか、この賞に対する関心が私自身の中でも高まっていた。大江健三郎の前回の受賞から29年が経っており(大江の受賞は1994年のこと)、そろそろ日本人作家が受賞してもおかしくないことも大きい。

 予言者として振舞うことはないように注意しているが、半ば戯言で、知人に「今年は多和田葉子が受賞するよ」などと宣言していた。ところで、自明のこととはいえ言葉には自己暗示性があるようで、そうした「予言」を声に出すと、本当に彼女が受賞するような気がしてくる。諸々勘案すると、彼女が受賞してもおかしくはないような気がしてくる(理由はいくつかあるが煩瑣になるので挙げない)。さらに、もしも彼女が受賞したら、書店で作品が入手しにくくなるのではないか、図書館での貸し出し希望が殺到するのではないか、といった妄想に、この10月5日の夕方に私は襲われることとなった。紛うことなき妄想である、という自覚はあったが(いや、可能性もある程度ある以上、「妄想」という言葉は不適切か)、こうした思いに身を委ねてみるのも一興、と思い、古本屋のサイトで彼女の作品をいくつか買い求め、さらに、図書館でも、「もしも彼女が受賞したら、俺には先見の明があることになるな」などと、品性に欠けたことを考えつつ、その小説のいくつかを予約したわけだ。

 2024年10月5日20時(ストックホルム現地時間同日13時)、こうして準備万端を整えた(?)私は、授賞式の生中継をYouTubeで見始めた。もっともこの視聴は、思いもかけぬ理由で少々ストレスを覚えるものとなった。最初に然るべき紳士による発表が行われるのだが、この方、まずはスウェーデン語、次に英語で話す。ところで、スウェーデン語について無知であることを棚に上げて言うが、この両言語は、響きが多少とも似ているように思う。そのためか、スウェーデン語の段階では、「あれ、英語かな?」と、脳内が「ずっこけた」ような状態に陥ってしまう。今年の受賞者であるJon Fosseの名前を知らなかったことも大きい。結果、十分に理解ができず、ストレスを抱えた状況となった(なお、事情がわかって後から聴きなおすと、それほど理解に難しいものではなかった)。二人目のプレゼンテーターが細かい受賞理由などを話している段階で、ようやく脳が慣れてきたのか、ノルウェーの作家が受賞したこと、受賞理由のいくつかなどが、ようやく聞き取れるようになった。なお、受賞者発表の様子は以下のリンク先から見ることができます。

 

https://www.youtube.com/watch?v=gnN_po2389E

 

 このように、私は、多少のストレスを抱えながら自分の予言が外れたことを悟り、ノーベル文学賞に翻弄されてあれこれ買い物をするなどしてしまった一日を終えたのであった。

 とはいえ、久しぶりに多和田葉子を読み直すきっかけとなったことは良かった。彼女の作品も以前多少読んだことがあり、いわば再読なのだが、前々回に触れた大江健三郎の場合と同じく、若い頃よりは「読めている」ように思う(一番単純な理由は、若いころの読書にはどこか「読んだ」という既成事実を作りたい、という底意があるが、年をとってからの再読の際には、作品それ自体に向かう姿勢が増すからであるようにも思う―少なくとも私の場合)。

 

 なお、今回のことをきっかけに学んだことをいくつか。

 一つは受賞者の傾向の話。ノーベル文学賞、2015年にスベトラーナ・アレクシエーヴィッチ(『戦場は女の顔をしていない』を書いたジャーナリスト)、2016年にボブ・ディランを選出するなど、文学の「枠」を拡げる傾向にあったが、2017年の、スウェーデン・アカデミー会員の夫の性的暴行疑惑をきっかけに、伝統的な文学の枠を重視する方向に転換したという。正直、スキャンダルと受賞者の傾向の変化との間の因果関係はよくわからないのだが、「文学」の動向を考える場合に、参考にしてもよいことと思う。

 もう一点、2020年代の受賞者たちは、昨年のアニー・エルノーを除いて、ほとんど邦訳がない。2020年受賞のルイーズ・グリュックの邦訳は二作のみであり、2021年受賞のアブドゥルザルク・グルナの小説は一つも訳されておらず(wikipediaによれば、2024年1月にParadise という作品の邦訳が白水社から出るようだが)、本年受賞のヨン・フォッセについても同様。この状況を、翻訳大国日本の凋落と取るべきか、それとも時代の自然な変化と取るべきか、はたまた英語(ないし他の言語)で読む喜びが増えたと考えるべきか、判断はしばし保留したい。

 

 さて、「予言者」として振舞わない、と書きつつ、来年2024年度はやはり多和田葉子が受賞する可能性に賭けてみたい。日本語とドイツ語という二つの言語で、様々な「境界」を揺らし続ける彼女の作品は、ノーベル文学賞それ自体をどのように評価するかはさておき、この世界で最も有名な文学賞に相応しいようにも思う。先に述べたように、来年受賞するならば、30年ぶりの日本人、かつ日本人女性としては初めて、ということとなり、色々な意味で事柄が落ち着くところに落ち着くような印象がある。

 加えて、実にくだらないことは百も承知で書くのだが、実はノーベル文学賞、2017年のカズオ・イシグロ以降、奇数年に男性が、偶数年に女性が受賞しているのである。これは案外と意図的であるような気もする。

 と言うわけで、上のような予言をしておきます。当たったら、直接の知り合いの方、一杯おごってください。私が外しても何もありませんが(図々しい・・・)。

 

M&M's

 

(10月14日記)