日記

 映画、音楽と充実した一週間だったので、記録をば・・・

 

1)ジョージア旧国名グルジア)の監督テンギズ・アブラゼの「祈り 三部作」の公開を機会に、彼の『祈り』(1968年)、『希望の樹』(1976年)を観てきた。『懺悔』については、日取りがあわなかったのと以前観たことがあることで、今回は見送り(年末に東京で上映する映画館があるので、帰省を機会に観るかもしれない)。

 いずれの作品も映像美が素晴らしく、ストーリーも、象徴的で難解とはいえ決して読解を拒むものではなく佳作。前者は、キリスト教徒とイスラム教徒の反目とそれを越えた一種の「友情」を背景に、社会の因習や人間の偏見の根深さを描くもの。神話的な語り口が、物語の普遍性を強調するように思う。後者は、20世紀初頭のジョージアのある村の人々の姿を描く物語。様々なエピソードが多声的に絡む合うさまが見事。しかし、赤いケシの花が咲き誇る中で白い馬が死ぬ、という冒頭部からして、どう考えても体制批判だと思うのだけれど、1977年度の「全ソヴィエト映画祭大賞」を獲得しているとのこと。誰も体制批判とは思わなかったのかしら? いずれにせよ、政治的抑圧は優れた芸術作品をしばしば生みだすという皮肉の好例のように思う。

 なお、今年観たジョージアの映画としては『花咲くころ』も心に残る作品だった。

 

2)内田光子のオール・シューベルトプログラムの演奏会に行ってきた。演奏されたのは、7番、14番、20番。

 私は、必ずしもファンではないという意味で(生意気をお許しいただければ、時に批判的ですらある)内田光子の良き聴き手ではないのだけれど、それでも今回の演奏会には圧倒されるものがあった。

 特に、第14番については、この曲の悲劇的な要素を極度に強調した演奏だったが、この時期のシューベルトの苦悩について思いを致すなら、こうした演奏こそが曲の本質をえぐりだしていると言えるかもしれない。この曲についても、これまでは、どちらかといえば淡白な感じの、悲哀がほのかに浮き出てくるような演奏が好きだったので、その意味ではこの曲へのイメージが変わった。

 第20番についていえば、非常にエネルギッシュな演奏で、この曲の持つエネルギーを徹底的に表現するものだったが、特にこの曲の回帰的な性格(わけても、最終楽章で第一楽章冒頭の動機が戻ってくる)が強調されており、「永遠回帰」に近い概念が音楽的に表現されていると感じた(これは僕の勘違いかもしれないけれど)。

 先に述べたように、私は必ずしも彼女のファンとはいえないが、それでもそうした趣味を超えて、彼女の芸術家としての姿勢には感嘆を禁じ得ない。

 なお、彼女の演奏は楽章間の休憩もほとんどとらず、聴衆にも高い緊張を要求するものだったが、これは、シューベルトのような曲の場合極めて適切のように思う。こうした曲の演奏にはやはりどこか宗教的礼拝に似たものがあり、楽章間にそうした緊張が途切れるのは、決して好ましくはないのだろう。

 

 演奏会前日のトークショーにも行ってきた。彼女の話しはとても面白く刺激的なのだが、気になることが一つ。シューベルトの後期の曲について、「死」の意義を強調なさり、それはその通りなのだが、この「死」の強調によって明らかとなる「生きる喜び」といったものについても語ってほしかった、というのが私の思いである(数年前にも同様のトークショーに出たが、その時も同じことを思った)。これは、言うまでもないことだからなのか、それとも、シューベルトの後期作品については「生きる喜び」を語ることはできないと彼女が考えているからなのか、ちょっと気になるところである。

 

M&M'S