幸せであることと幸せに見えること

 

 誰でも幸せでありたいと願うものだが、少なからぬ人が実際に追い求めているのは、「幸せに見えること」ではないか、と思うことがしばしばある。そして、世の苦しみのかなりのものは、そこに由来するのではないかとも思う。

 多少黒い言い方になるが、私は、「幸せに見える人」が、実際には内心に地獄を抱えている例を少なからず見てきた。嫌味ではなく、単なる事実である。傾向としては、過去の自分のなした道徳的に問題をある事柄を隠そうとする人ほど、必死に「幸せに見える」ようにしているように思う。だがそうした人は、そんな努力の中で、そして自分を幸せとは思ってくれない人を否定しようとする中で、一層の深い闇に落ち込んでいくこともある。だから私は、「幸せに見える人」が「本当に幸せ」であるとは、必ずしも思わない。もちろん幸せに見え、また実際に幸せな人も多いが、それでも「幸せに見える」ことには、何か罠のようなものがあるように思う。

 むしろ、自分に降りかかった災いや不幸との戦いを隠さず、場合によっては諦念と共に受け入れる人を見るときに、たとえ世間はその人を不幸だと見なそうとも、人間に許される幸福とは、むしろこうした姿に宿るのではないか、と思うのだ。

 そこまで言わずとも子供たちを見ればよいのだろう。あの子たちは、幸福であることに一所懸命で、幸福に見えることなど微塵も気にしていない。人は一体いくつごろから、どのように、他人に幸福に見えるようでありたい、と思うようになるのだろうか? そうした事柄を巡る心理学的研究でもあるのだろうか?

 

 「他人に幸福だと思ってもらいたい」ときの幸福の定義は比較的容易であるように思う。そして、私が考えるように、「幸福であること」と「幸福に見えること」が根本的に異なり、またしばしば対立するものであるのなら、むしろ「幸福に見えること」の「幸福」を織りなす要素を捨て去っていったさきに、「幸福であること」の秘密があるのではないだろうか。

 

 ごくごく当たり前のことだが、時に「幸福に見られたい」という欲望に駆られているらしい自分への自戒をこめて、ここに記しておく。

 

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