ハイドンの交響曲

 先日コンサートに行き、ハイドン交響曲第92番、第94番、ならびにチェロ協奏曲第1番を聴いてきた。いずれの演奏も、ハイドンの持つ「健康な明るさ」とでも呼ぶべきものが溢れかえって居て、曲の魅力を最大限に引き出すもので、心から楽しむことができた。また、輝かしい明るさに満ちた第92番はモーツァルトの世界と、劇的な展開を見せる第94番は、実のところベートーヴェンとそれぞれ世界を共有するように思うが、これには確信がない。いずれ、もう少し勉強してみたいとは思っている。


 とはいえ、実はハイドンには、なんというか苦手意識がある。昔からそうなのだ。二十年前以上、恩師の一人と話していて、「音楽はやはりハイドンですよ」と言われて、「はあ〜」とかなり気のない返事をしたことを覚えている。もっともそれ以降、演奏会で聴いたり彼の弦楽四重奏曲を友人と演奏したりする中で、次第に先の言葉の意味がわかるようにはなってきた。確かに彼の音楽には、モーツァルトベートーヴェン、さらにはメンデルスゾーンなりに繋がっていくものがあるような気がする。そもそもそうした影響云々を別にして、彼の作品は、基本的な形式をしっかり守りつついくつかの主題を様々に変化させ組み合わせて楽しむという、造形性の喜びに満ちていると思う。その結果として、とても健康で明るい響きを、私たちは彼の曲を通じて様々に楽しむことができる。
 ではなぜ苦手なのか?
 一つには、彼の作品があまりに膨大すぎることがあるだろう。弦楽四重奏曲を例にとれば、68番までとのこと。主だった作曲家は一桁代、ベートーヴェンが16曲で、これはまあ全部聴いてみようかという気持ちにもなるし、実際まあどうにかなる。モーツァルトだって23曲だ(実は13番以前は未聴だけれど)。そんな中でこの数字はちょっとどうかしている。だから、なんというか全体像を少しだけでも感じられた、という気分にならない。まあ、一曲一曲を楽しめばよいのだ、と言われればそうなのだけれど、ちょっと居心地が悪い。
 もう一つは、彼の「健康さ」それ自身があると思う。なんというか、うまく言えないのだが、「できすぎ」なのだ。成績もよくスポーツ万能、性格も良い、と、非の打ち所のない友人といった感じだろうか。そういう友人は嫌いではないが、時に付き合っていてふっと違和感を覚える −そうした感じだろうか。


 もっとも、開き直ってしまえば、そうした違和感、あるいは苦手意識を感じながらもつき合ってみる、というのも悪くはないのかもしれない。
 また、翻ってみれば、上に述べたような特質を持つハイドンの曲を楽しめるか否かは、聴くものの心の成熟を測るものたりうるかもしれない。そんなことを考えながら今後も時折ハイドンの曲を意識的に聴いてみるならば、それはそれで、面白いものがあろう。


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