すべての人に理解されることはできない

 現在ちょっとした案件に関わっている。こうしたことの常として詳細は書けないのだが、そこから思ったことを記しておきたい。


 生き方のスタイルが多様になり、そうした多様性を認める寛容さが一般的なモラルとして推奨されることは素晴らしいことだ。この流れはこのまま続くべきだと思う。だが、そうした環境の推進に応じて、私たちは時に、「自分の生き方の原則を、すべての人が肯定するべきだ」という思い込みを持つことがあるようにも思う。結果、自分の生き方の原則に何かしら反対する人々に対して、激しい攻撃をしてしまうこともあるようだ。
 だが、そうした時にはまず「およそ、すべての人に理解されることはできない」という原則を思い出すようにしたい。どんなに「正しい」原則であれ、それが万人に共有されることはまずない。誰かしらは異論を持つ。この厳然たる事実と認めることができないと辛くなる。それに、「異論」それ自体は間違っていても、そうした異論の「存在」が、良い方向に物事を運ぶことすらある。そうしたことを認めずに、「この原則を否定することは間違っている」として当該の相手を攻撃すれば、その攻撃性のゆえに、結果的に自分の心が傷ついてしまう。
 また、次のように考えることもできよう。


・当該の原則を攻撃する人は、そもそもどれだけ説得したところで、その原則を受けいれてくれることはない。攻撃すれば自分の殻に閉じこもるだけ。だとしたら、激しく攻撃することはしないで、「そうですか、けれども私はこの原則を変えるつもりはありませんよ」と冷静に言うほうが良い。
・ある原則は、様々な水準で様々な結果を引き起こす。正しい原則であれ、ある視点から見れば「不都合」といえる結果を引き起こしており、批判はそこに向けられているのかもしれない。その場合は、水準を分けて議論を進めるべきだろう。
・また、自分の原則が間違っているかもしれない、と、己を顧みる心の余裕を持つことができればなお良い。


 まあ実際「すべての人に理解されることはできない」というのと、「あれ、今回は自分が間違っているかも」ということをしっかり心に刻んでおけば、生きることは少しは楽になるだろう。
 さてさて私はと言えば、それなりの年齢なので前者の「すべての人に理解されることはできない」というのは、まあわかっている(多分)。危ないのは後者のほうで、結構自分の原則に頑固なのと、いつのまにか、「自分が間違っているかもしれない、と思えている自分のほうが正しい!」という心理的にパラドクシカルな事態に陥ってしまうことがあるのだ。気をつけないといけません。


M&M's