世を騒がした例の件について思うこと

 この記事の日付の一週間ほど前に世を騒がした一件について、思ったところを記しておきたい。とある要職にある人が、過去の言動(ないし行動)のためにその職を去ることとなった件のことだ。記載を簡便にするために、件の人をX氏と、X氏が、自分が過去に行ったと述べている点を事案Aと呼ぶこととする。

 万人が言う通り、事案Aはどこをどう見ても弁護の余地のなく、X氏の辞職も至極当然のことと思う。しかし、ごく二日ほどの間にあった一連の流れは、少なくとも私にはどこか、言い知れぬ違和感を残すものでった。X氏の辞職がおかしいとか、事案Aに弁護の余地があるなどと言いたいわけではない。

 私は、世にあまたある「悪」の典型的なものの一つとして、自分を完全に「正義」の側にいた上での、何かしらの問題行動の糾弾があると思っている。

 一番わかりやすいのは、様々な失言に対するパッシングであろう。マスコミが取り上げて騒ぐような失言は確かに問題あるものが多く、その発言自体を非難することは仕方がない、と思う。しかし他方で、行き過ぎた攻撃というのも数多あるわけで、発言者の人格を完全に否定し社会的に抹殺しようとするものもある。見聞きしていて気分の良いものではない。そうした攻撃はたいがい、自分の「正義」に酔うもので、社会正義の実現を目指すというよりは、自分のフラストレーションを発散するために、失言叩きを続けているように見える。そして、自分自身が「誤り・過ち」を犯し得る存在者である、ということを忘れているように見える。そうした、己がいかなる存在かを忘れた上での他者への攻撃は、「悪」の典型に数え入れてよいと思う。 -もちろん、そうした人を非難する今の私の言動も、そうした「悪」に陥る可能性を免れてはいない。 心底恐ろしいことだ- 「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい。」

 私たちはそうした「悪」に陥らないためにも、自分のが「誤り・過ち」を犯し得る存在者であることを思い起こしながら、相手が件の失言を発した事情を推し量るなどして、攻撃をやめ、あるいは、相手が何かしらの責任をとったならば、それ以上の非難はやめよう、ということになる。あるいは、件の発言は問題があるとしながらも、人間は変わりうる、という事実に期待しようではないか、ということになる。

 実際、世にある様々な事象への非難は、そうした経緯を経て収まっていくことが多いように思う。「あまりやりすぎるのはやめよう」「私たちも誤りうるものなのだから」というわけだ。人によっては、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」という言葉の重みを思い出しながら。

 

 しかし、冒頭で述べたX氏の事案Aについては、そうしたことは起こらなかったし、今後も起こらないだろうし、あえて言えば、残念ではあるが、基本的には起こってはならないようにすら思う。

 事案Aは、仮にX氏が述べたとおりに起こったものであるならば、どこをどうつついても弁護のしようのないものだ。また、私の想像力の欠如と言われればそれまでだが、ここまで来ると、こうした行動をしてしまう自分というのが想像しにくい(本当は想像するべきなのだろうが)。過去の組織的な戦争犯罪などについては、それを犯してしまうかもしれない自分を想像することができる、あるいは想像すべきだと思うのだが、事案Aについては、難しい。

 多くの人にとってもそうだったのだと思う。

 だから、X氏に対する攻撃は一方的となり、激しいものとなり、とどまるところを知らぬものとなった。そして私はそれを見て、「正義」という「悪」が発動しているな、といつものように思いながら、今回はこの件は、致し方のないことなのだろうか、という苦い思いに捉われた。なぜならば、今回は、そうした非難を控えるならば、事案Aで述べられていた行為を是認することに繋がってしまうような気がしたから。

 しかし、落ち着きの悪さは残り続ける。そして、こんなことも思った。

 屁理屈ではあるのだが、事案Aはそれ自体も悪しきことであるのだが、人々の「正義に酔うという悪」を無条件に発動させてしまう条件を備えていた点で、二重に「悪」であるのではないか、と。いつか私は、ある種の悪行をなすと、それを生涯にわたって正当化しながら生きていくという辛いことになるので、そうした悪行はしないほうがよいのではないか、と書いたことがあるが、それと似て、ある種の悪行は、「正義に酔うという悪」を他者のうちに引き起こすがゆえにも、なさぬほうが良いのではないか、とも思ったのだ。

 

 それにつけても、仮に事案Aが事実であるならば、X氏という方は、いたくかなしい人だ。また、過去のこととはいえ、そのことを嬉々として語っていたとしたら(実情は不明なところもあるらしいが)、それもまた、どうしようもなくかなしいことと思う。その荒涼として心の風景を思う時、もちろん事案Aは非難されるべきなのだが、私にとってX氏は、傲慢の誹りを恐れずに言えば、非難の対象というよりは、憐れむべき対象にもなっていく。

 

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