斗酒三十年(二)


 酒席には単発のものも多いが、定期的なものもある。そうしたものには、二つあると考えている。一つは、職場やサークルなど、自分が属している集団の枠内で催される、頻度に差はあれある程度定期的なもの。もう一つは集団の枠を越えて、個人的に友誼を結び、定期的に呑むようになるもの(件の方とはもちろん何らかの集団で知り合うことも多いのだが)。
 今日はそうした思い出のうち、前者について。

 

 大学時代に属していたオーケストラでは、練習の後はだいたい居酒屋に行っていた。練習が21時過ぎまであったため、腰を落ち着けるのは21時30分を過ぎるのだが、二時間程度できっちり酒席を終わらせる、という意味ではよかった。家の遠い人が参加しにくい点は残念だったが。
 オーケストラにせよ室内楽にせよ、複数人での音楽の演奏には人の気持ちを昂らせるものがある。そうした興奮を鎮め、練習の内容を振り返ったり何か新しい知見を得るためには、酒席は向いていると思う。私のいたオーケストラには、何人か素晴らしいヴァイオリン弾き、チェロ弾きがいて、そうした人に、演奏の仕方のコツをや子どものころの練習の様子を聞くのは、自分の見聞を拡げることに大いに役立った。親しい人の経験というのは、よく知らぬ人の経験と比べて想像しやすいものだ。また、楽曲に関する知識に関しても、酒席で学んだことは多い。大学生くらいだと、よほどマニア的な志向を持つ人でなければ、曲に関する知識というのは、限られたものだろう。とはいえ、皆、ある程度は「この曲が好き」といった趣味は持っている。私にとっては、そうした趣味を聞く中で、「知らない曲だから聴いてみよう」と思って触れた曲は多い。大学生のころは恥ずかしながらまだベートーヴェン交響曲8番を知らなかったのだが、「ベートーヴェン交響曲では僕は8番が一番好きかも」と教えてくれたのはチェロの後輩だった(もっとも教えてくれたのは酒席ではなく合宿の時だったが)。後は、今ではプロのオーケストラにいるヴァイオリン弾きが、「リヒャルト・シュトラウスは「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」がいいよ」と教えてくれたことが、なぜか記憶に残っている。似た例は、枚挙に暇がない。

 この時期には、以前も触れたが、アルバイト先でもよく呑んでいた。オーケストラでほど頻繁ではなかったが、まあまあの頻度ではなかったかしら。ここは、以前も少しだけ触れたことがあるが(2020年7月24日)、何かしらの学問に通じた人が多く、そうした人の話を聞くことが楽しかった。特に、私が苦手とする理系の事柄についてあれこれお聞きするのは、単純に楽しい作業であった。「シュレディンガーの猫」の理屈がどうしてもわからず(今でもわからない)、物理を専攻する方に延々と質問を続けたこともあった。この方はとにかく丁寧に答えてくださりはしたのだが、最後は「う~ん、とにかくそうなるというのが式から導ける、としか言えないんだよね」とおっしゃっていたように思う(記憶違いだったら申し訳ない)。そういうことがある、ということは、心に強く刻まれた。

 あと、定期的によく呑んでいたのは最初の職場であろう。ここには様々な年齢、キャリアの人が集まっていた。若手で気の合う同士が十日に一度くらい出かけていく感じだっただろうか。時に、年長の方々や隣の組織の人たちを誘って繰り出すこともあった。こちらは普段できないような仕事上の話を交わすことが多かっただろうか。呑み方にもよるが、時に仕事を先に進めるために酒席を利用することがあるのは、この席で学んだ。

 

 酒席に効用があることについては確信している。酒席の効用に反対する方は、「酒席でできるような話は素面でもできる」とおっしゃる。これは、半分は当たっていよう。ただし、酒席での心弾む話題というのは、最初から狙ってできるものではない、というのもまた真実ではないか。酒席で盛り上がった話題というのは、うまく会話を進めれば素面でもできるよね、というのが実相だと思う。
 そもそも素面で何か話題を決めて話し始める場合、脱線というのが難しい。また、その話題について会話が終われば、自然と散会となろう。会話が人間の側にコントロールされてしまうのだ。それに対して、酒席の場合、決まった時間は腰を落ち着け、緩やかな脱線をしているうちに、会話が人間を引っ張っているかに思える瞬間が出てくる。羽目を外してだらしなくなる、というのではなく、足の向くままに街を歩き回るかのように会話が自由に流れ、そのリズムが私たちの気持ちを浮き立たせるような瞬間が、確かにある。そうしたとき、心は日常生活の中で定めていた限界を越えて、何か新しいものに開かれるようにも思う。
 酒席を嫌う人も千差万別なので一緒くたにしてはならないが、中には、こうした自由な感じを嫌う人がいる。そうした人は、会話なりなんなりが自分のコントロール下になければ気がすまぬ、一言で言えば、自分の得になることしかしたがらない人にも見えてしまう。やや僻目もあるかもしれないが、案外的を外していないのではないか。
 とはいえ、酒席を嫌う人の気持ちもやはりわかる。心が「自由に」なった結果、その場にいる人が嫌がるような話題(例は省く)のできることが酒席の楽しみだと思っている人もいるようだ。そんなものは単なるわがままだろう。酒席における「自由」は、普段は慎みやその他の理由から他人には見えぬ、ある人のの美点や優れた知識が、ほぐれた雰囲気の中で垣間見えるような時のために使われるものだと思う。
 こう考えてみると、酒席にはやはり、堅苦しくないものとはいえ一定の作法があるような気がしてくる。定義するならば、話す相手が普段はあえて示さぬような美点を引き出す言葉の用い方であり、相手が求める場合には、自分が持つ何かよきものを、相手へと示す寛いだ心持ちを保つこととなろうか(大切なことだと思うが、うまく書くことができない・・・)。そして、そうした作法は、翻って日常生活での人との交際のあり方のヒントを与えてくれるのではないか。
 そうした作法があることを知り、それが一生かけて学ぶものという思えるようになったことは、「斗酒三十年」で得た功徳に数えて良いとも思う。

M&M's


追記:こうした「作法」については、やはり山口瞳の一連のエッセイが教えるところ多いと思います。今、山口瞳のようなポジションの人はいるでしょうか? 時々伊集院静山口瞳に重なる瞬間もあるような気もしますが、とはいえ違いは大きい。良い悪いの問題ではなく、個性の違いでしょうが。