歴史上の人物に「さん」を付けるか?

 授業中、歴史で習う人物に「さん」付けをする教員がいるそうだ。「源頼朝さんが幕府を開きました」といった言葉遣いをするとのこと。周りに聞いてみると、数が多くはないとはいえ、そうした教員も時にいるらしい。端的に不適切と考える。なぜそのようなことをするのか、かけらもわからない。

 「さん」付けをしてもいいではないか、という人に対しては、そんなことをしなかった過去の授業も十分に成立していたのだから、あえて余計なことをする必要はない、一言返答することで済ませたい。しかしこの手の人間は、えてして自分の間違いに気づかないどころか、自分の方が適切だと思っている可能性すらあるので、一応理由を述べておかねばなるまい

 もっとも大きな理由としては、子どもに理解する対象への距離感を失わせ、わかった気分にさせてしまうから、というものがある。歴史をなぜ学ぶかと言えば、私たちにはなかなか理解できない事象へと接近する方法と作法を学ぶためであろう。そのためには、「わからない」という意識も重要だ。しかし、「さん」付けをすれば、事柄を、あたかも知り合いのそれであるかのように理解できるかの錯覚をする可能性がある。しかし、そうした理解は本質的な歴史の理解からは程遠い。

 そもそも、歴史的な人物は知り合いではないのだから、「さん」付けをするのはむしろ失礼、というのは常識であろう。著名人や何かしらの社会的地位を持ち、客観的な研究の対象となる可能性がある人物については、役職名などと共に呼ぶか、とりあえず敬称をとるのが常識ではないか。そもそも「さん」付けは、あたかも話し手と対象とが親しいことを誇示するかの雰囲気を持つときがある(もちろん、居酒屋の政治家談義の時にような例外はある)。通常、著名人などに「さん」を付けるときは、「実はお会いして少しお話をしたこともあって、それで「さん」付けにしている」などと断るのが作法であるように思う。

 

 「さん」付けをする連中の言うことはわかっている。「歴史上の人物に、親しみを持ってほしいから」と言ってくるだろう。端的に言うが、歴史上の人物の行動を知るに際しては、「親しみ」などいらないのだ(いや、親しみを持っていても「さん」はいらないだろう-「義経の生涯は哀れを誘うよね」といった言葉で十分ではないか)。「さん」付けなどしなくても、興味を持つ子は持つし持たない人は持たない。それだけの話だ。「さん」付けをすることで、子どもに関心を持ってもらうための工夫をしているかのようにごまかしをするのはやめていただきたい。

 

 そもそも、歴史上の人物を「さん」付けする心根の背景にある、微妙な自己愛が嫌いなのだ。「誰にでも丁寧な自分」をPRしたいのだろうか。だが、そのようなPRをする人間が、実際には実にしばしば他人をないがしろにすることを、私は経験則で知っている。歴史上の人物との適切な距離感すら取れないのだから、現実の世界の他人との距離感は、ますます測れないのだろう。

 とにもかくにも、歴史教育における「さん」付けは、原則として撤廃してほしい。

 

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