「お久しぶり!」は嬉しいもの

 aberinaさんの久しぶりの記事を、大変嬉しく拝読しました。なぜだかうまく説明できないけれど、とても胸が暖かくなったのです。この思いを反芻しながら、次のようなことを考えました。

 SNSが身近なものとなったおかげで、随分とお会いしていない人の近況も比較的わかっていることが増えました。私が参加している某SNSの知り合いの方、もう何年も、いや、場合によっては何十年もお会いしていない方もいますが、実際にお目にかかっても、あまり「久しぶり!」という感じはしないかもしれません。こうした情緒が無くなったことに一抹の寂しさはありますが、穏やかなコミュニケーションが続けることが容易になったと解釈すれば、よいことなのかもしれません。

 しかし、こうした状況にあるからこそ、やや稀になってきた「お久しぶり!」という言葉を受け取り、あるいはかける経験が、一段と味わい深いものとなってきているのかもしれません。

 いつぞや書いたように、私は高校同期の同期会の幹事をしており、ここ〇十年間ずっと、忘年会の企画をしています(コロナの状況でも、遠隔忘年会という形で続けました)。これほど長くなると大体参加メンバーは固定してくるのですが、それでも、突然、「初めてだけれど参加してよい?」という連絡が来ることがあります。そうした友人がいると、不適切な言葉であることは百も承知なのですが、「放蕩息子の帰還」という言葉が頭に浮かびます。別に同期会に来ないからといって「放蕩」でもなんでもないし、悪いことでもなく、失礼極まりないのですが、最初についこの言葉が浮かんでします。

 また、ある程度長く生きていると、思いもかけない形で十年以上ぶりに連絡があることもたまにあります。一方で個人情報には厳しい時代ですが、他方で、私の名前を知る人は、その気になればメールアドレスを知ることができる状況にあることも大きいでしょう。

 十年ほど前には、海外出張時にジュネーヴでメールを開いたら、小学校時代の友人から十五年ぶりくらいで連絡が入っていたことがあり、一瞬時空のねじれに入ったような趣深い気持ちがしたことがありました。また、一昨年のことですが、もう何十年か前に某所で教えた生徒さんから連絡をいただいたこともあります。一つ、大きな区切りとなる仕事をしたので、お世話になった人に連絡をしているとのことでした。私がこの優秀な方に何かお世話をした、ということはなかったはずですが・・・ しかし、いずれの事例にしても嬉しいことでした。

 もちろん逆の場合もある。こちらでも記しましたが、昨年、小学校時代の恩師に恐らくは卒業以来、連絡をとりました(私の母が十年ほど前に諸事情で先生に連絡をとっており、住所と電話番号がわかったのです)。先生が心より喜んで下さったのではないか、という私の思いが、勘違いではないことを信じたい。

 何にしても、「お久しぶり!」といったメッセージには、独特の不思議な情緒があります。今回、aberinaさんの記事を読み、そうした情緒をしみじみと味わうと同時に、もしも私が連絡をとることでそうした思いを抱いてくださる方がいらっしゃるなら、そうした方とまたお会いしたいもの、と、漠然と思ったのでありました。

 

M&M's

(5月29日記)

 

※後記・・・もちろん久方ぶりの再会が独自の苦みをもたらすこともあるだろうし(未見だが、映画「舞踏会の手帖」は、そうした「苦味」を教えるものかしら?)、過去をあまり知られたくない人にとっては、「お久しぶり」という言葉が何かの宣告のように響く時もあるでしょう(松本清張の「砂の器」が思い出される)。そうした「否定的な」場合にも、やはり独特な情緒は残るように思いますが、これらの諸要素の関係は、ちと複雑なものとなるようにも思います。